『映画の奈落 北陸代理戦争事件』

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2014年  著者:伊藤彰彦  発行:国書刊行会
発行元によるこの本の紹介→http://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336058102/

映画『北陸代理戦争』(1977年、監督:深作欣二、脚本:高田宏治)が封切られた1ヶ月半後、主人公のモデルである川内組組長・川内弘が、映画と同じシチュエーションで銃撃され、死亡。
この事実を軸に、関係者への取材や脚本の分析によって、『北陸代理戦争』という1本の映画を徹底的に研究した本が、この『映画の奈落 北陸代理戦争事件』です。

映画制作当時、高田宏治は、先輩の笠原和夫(『仁義なき戦い』などの脚本家)を越えようと意気込み、いっぽう川内弘は、自分の親分である菅谷政雄を飛び越して、極道社会を駆け上がろうとしていた最中。
高田氏は、主人公が親分に宣戦布告するような内容の脚本を書き、川内氏もそれにOKを出し。

ある意味、似た者同士の2人が出会って映画が生まれ、事件が起き、川内氏は殺され、映画も全くヒットせず。
2人はともに奈落に落ちてしまった‥‥というわけです。

そして高田氏はその後、『鬼龍院花子の生涯』や『極道の妻たち』シリーズなどのヒット作を生んで数々の賞に輝き、奈落から這い上がった‥はずだったのですが、のちに再び極道がらみの出来事で、奈落に落ちることになります。

この高田氏の激動の人生に加え、周囲の映画人たちや、川内氏をはじめとする極道社会の人々のドラマチックな人間模様が詳細に描かれていて、それだけでもかなり読みごたえがあるのですが、この本にはさらに、「脚本分析」という大きな要素があります。

著者の伊藤彰彦氏はもともと脚本家なので、「映画の作り手」の目線で、『北陸代理戦争』の脚本を精緻に分析しているのです。
高田氏が、川内氏らに取材して得た材料から、どのようにフィクションを紡いでいったのか。
高田氏が、深作監督とのバトルを通じて、どのように脚本を書き変えていったのか。(第1稿と決定稿の比較も、細かくなされています。)

このように盛り沢山な内容の『映画の奈落』。面白いし、かなり珍しいタイプの映画本だと思います。オススメです。

‥‥しかしこれだけでは、何だか抽象的すぎるので。
私がこの本を読んで、妙に心に残った部分を、具体的にいくつかメモしておきます。

◆高田氏が川内氏を取材している時、川内氏がなぜか唐突に、日大芸術学部がどうのこうの‥‥と言う。川内氏、「東映が自分の映画を作ってくれる!」と思って、かなり気分が高揚していたのかなあ。高揚してる時って、人はつい脈絡の無い、意味不明なことを言ったりするから。

◆川内氏が殺された後、彼の子分たち(山岸とYとM)が、深夜の映画館で『北陸代理戦争』を観る。観た直後にM氏が語った意外な感想、可笑しくてちょっと哀しい。

◆その「子分たち」は、報復として菅谷政雄を殺すよう上から命令されていたが、それを実行する前に、まず山岸氏とY氏が銃刀法違反で逮捕される。山岸氏が著者に語った、この逮捕の「真相」は、かなり驚くべきもの。こういうことって、現実にあるんだなあ‥‥。

以上、「具体的にメモ」と言いつつ、肝心なところは伏せておきました。気になる人は、本を読んでください!

そして最後に。今回のイラスト、やや不自然なほどに「目」を強調してみました。
描きながら考えていたことは‥‥「奈落の淵を覗き込む目って、どんな目なんかなあ」。


※追記(6月15日)‥‥うっかり書き忘れていましたが。この本だけでなく、映画(『北陸代理戦争』)のほうも、とても面白いです。ストーリーは陰惨なのに、コミカルな場面も多く、観ていて何度も笑ってしまう、不思議な映画。

『ザ・シネマハスラー』

2010年 発行:白夜書房
編著:TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』

発行元による本の紹介→http://www.byakuya-shobo.co.jp/page.php?id=1463&gname=shoseki
番組の公式ブログ→http://www.tbsradio.jp/utamaru/index.html
 
 以前オススメしたラジオ番組『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』の映画評コーナー、「ザ・シネマハスラー」の書籍版。
 このコーナーは、スタッフが選んだ「今週のサイの目映画」6本の中から、宇多丸氏がサイコロを振って観る作品を決め、翌週に彼がひとりで約30分間の映画評トークをする‥‥というもの。基本的に、扱うのは公開中の新作。また「サイの目映画」のうち1本は、リスナーからのリクエストが反映されます。

 ここでかなり重要なのは、「サイの目映画」を選ぶのがスタッフ(とリスナー)だということ。つまり、宇多丸氏本人が「観たい・語りたい映画」ではなく、スタッフとリスナーが宇多丸氏に「見せたい・語らせたい映画」が選ばれるわけで。
 当然、本人が嫌いそうな作品や興味なさそうな作品もしっかり入っているし、サイコロ振りの結果、そういう作品に決まることもあります。そして翌週、予想どおり批判トークが炸裂する場合もあれば、意外に絶賛トークが響きわたる場合もあり。
 本人の意向で作品を選ぶと、あまりこういう展開にはならないので、まずこのシステム自体が面白いと思います。

 では肝心の映画評そのものは、どうかというと。特に、「本人が好きそうな作品を予想どおり絶賛する」という展開の場合、少々つまらないものになる可能性もあるわけですが、そんな場合でも、なかなか聴きごたえ(読みごたえ)があります。やはりシステム云々という以前に、宇多丸氏の分析の仕方が面白いからでしょう。

 例えば、ジョニー・トー監督のノワール・アクション『エグザイル/絆』評(P260~265)。この作品は、街中のシーンでも通行人を映さない、つまりわざと主要登場人物しか映さないことによって、やや現実離れした抽象的な世界を創りあげているのですが、そのことについて、宇多丸氏はこのように言って(書いて)います。

【‥‥こういう抽象化された、純化された美学、これが徹底された作品って、カルト的な熱狂を生みやすいんですよ。全然タイプは違うけど、例えば大林宣彦監督の尾道三部作。あの中で『時をかける少女』だけが、商店街とか「普通の街並み」を意図的にまったく映さないようにしてるんです。そういう抽象化された世界を舞台にしているからこそ、『時をかける少女』のカルト度は高くなってるんですよ。その意味でこれは、マカオを舞台にした、ジョニー・トーの『時をかける少女』です。って、分かりづれーよ!】

 『エグザイル』と大林版『時かけ』。この全くイメージが異なる2つの作品をあえて並べ、ムリヤリな屁理屈ではなく真っ当な論理で結びつけていくあたり、なかなか鋭いです。
 また、「ジョニー・トーの『時をかける少女』です」の部分だけは、さすがにややムリヤリだということで、自らツッコミを入れているのもイイ。このあたりはギャグっぽいですが、ギャグでもそうでなくても、自分で自分を客観視しているからこそ、こういうツッコミができるわけで。

 ちなみにこの本、ラジオ番組でのトークをそのまま文字に起こしたわけではなく、文章として読みやすいよう手を加えてあります。また、映画評についての後日談コメントやインタビューなど、書籍版だけの新企画も満載。番組のリスナーも、そうでない人も、両方楽しめる内容になっています。

 と、ここまで褒め続けてきましたが、最後にちょっと批判的なことを。
 
 この本の前書き(P2~3)に、【無差別映画評論コーナー「ザ・シネマハスラー」】と書いてあります。まあ、そもそも番組内で宇多丸氏がよくそう言っているし、公式ブログの「放送後記」にも、ほぼ毎回そう書いてあるわけですが。
 そしてこの「無差別映画評論」とは、「あらゆるジャンルの映画を評論している」という意味ですよね。しかし私が思うに、シネマハスラーは「無差別」ではないんじゃないかと。
 
 たしかに、ハリウッド超大作から日本の超低予算作品まで、幅広いジャンルの新作映画が評論の対象になっています。が、あるジャンルの作品は最初から除外されています。それは、ピンク映画。
 もちろん番組としては、コーナーの性質上(各作品に対するリスナーの感想を毎回募っている)、成人向けの作品は取り上げにくいのでしょう。また、局の意向も関係しているのかもしれません。しかしそれなら、例えば書籍版だけの企画としてピンク映画を取り上げるとか、色んなやり方があるのでは?
 私がこのブログで書いているように、ピンク映画にも実に多様な作品があるわけだし、日本映画の中のひとつのジャンルとして、たまには目を向けてほしいものです。

 でもまあ、これは私の勝手な推測ですが‥‥そもそも宇多丸氏もスタッフ諸氏も、ピンク映画について、あまりご存じないような‥‥。
 というのも、この本の「宇多丸インタビュー」(P344~)の冒頭近くで、宇多丸氏が上野オークラ劇場のことを、「ポルノ映画館」と言っているんですよね。
 ある程度ピンク映画について知っている人なら、上野オークラのことを「ポルノ映画館」とは言わないし、書かないでしょう。あの劇場で上映されているのは、あくまでも「ピンク映画」というジャンルの作品なので。

≪追記≫ 
 最後の部分、補足しておきます。
 ここで宇多丸氏が「ポルノ映画館」と言っているのは、おそらく「成人映画館」のことだと思うのですが、成人映画館にはいくつか種類があって、例えばロマンポルノとピンク映画の両方を上映しているところもあれば、ピンク映画だけを上映しているところもあります。上野オークラは後者なので、厳密に言うと「ピンク映画館」(大雑把に言った場合が「成人映画館」)。劇場公式ブログの記事の中にも、“ピンク映画館の老舗「上野オークラ劇場」”と書いてありますよ~。 
 さらに「ロマンポルノ」と「ピンク映画」の違いを簡単に説明すると‥‥ロマンポルノは大手映画会社の日活が製作、現在(2010年)では新作は作られていない。いっぽうピンク映画は複数の小さな映画会社が配給、現在でも新作が作られている。
 ちなみに上野オークラは、5月に開催される「第22回ピンク映画大賞(2009年度ベストテン)」の表彰式で、特別賞を授与されます。理由は、「イベント開催など精力的な劇場運営に対し」。

追記部分は、分かりやすくするためにアップ後も何度か書き直し、情報も追加しました。
6月に、この記事の後日談を書きました。こちらです。

≪追記(2014年)≫
 (この記事のことを、急にふと思い出したので書いておきます。)
 その後、上野オークラ劇場では、ピンク映画に加えてロマンポルノも上映されるようになりました。よって現在では、上野オークラは「成人映画館」です。
 それにしても、この記事をアップした頃は、いろいろと、こだわっていたんだなあ。

『肝、焼ける』

2005年(2009年に文庫化)  著者:朝倉かすみ
発行元の公式サイト→http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2763524

 「映画記」なのになぜか時々現れる本の話題シリーズ、です。さて私、数年前から朝倉かすみという作家が少々気になっております。作品によって、すっと受け入れられるものと、やや受け入れがたいものがあるので、特別に好きというわけではないのですが、ちょっと惹かれるというか。

 まず、言葉の使い方(言い回し)が面白い。例えば。彼女がネットで連載しているエッセイの『家電』というタイトルの回に、こんな一文があります。
 【シャワートイレなら、便座がほかほかしていて、肛門をゆすいでくれたら御の字だ】。これ、「肛門をゆすいで」ってとこが重要。肛門をゆすぐ‥‥何とも絶妙かつ笑える表現。個人的に、たいへん気に入っております。
 
 そして、この短編集『肝、焼ける』に収められた『コマドリさんのこと』の一節。ちなみにこの小説は、セックスの経験も無ければ男性との交際経験も無いまま40歳になろうとしている、駒鳥という名字の女性の半生をコミカルに描いたもの。で、そのコマドリさんが31歳の時、ミサワくんという職場の後輩男性に恋をし、彼に【セクシーを感じ】ていた頃の心情描写の一部が、これ。
 【コマドリさんはミサワくんとの性交を切実に希望した。コマドリさんは性交の実際を知らない。けれども、ミサワくんに挿入されたく思った。それは悲願といってもよかった。】
 「性交を切実に希望」。「挿入されたく思った」。「悲願といってもよかった」。ウッ‥‥笑ってしまう‥‥でも。過剰に生真面目に、過剰に折り目正しく生きてきた三十路女の、いじらしさ、のようなものも強烈に感じられます。やはり絶妙。

 ところで、この本の他の短編も、『コマドリさんのこと』のように「トウの立った処女」的な人物が主人公なのかというと、全くそうではありません。例えば表題作『肝、焼ける』の主人公は、24歳の男性と遠距離恋愛している31歳の女性。つまり彼女、コマドリさんがミサワくんとの「性交を切実に希望」していたのとちょうど同じ年齢で、年下の彼氏がいるわけです。さらに『春季カタル』という作品の主人公は、婚約者がいながら名も知らぬ男性と関係を持つ30代はじめの女性。つまり彼女、コマドリさんがミサワくんとの(以下略)。
 まあそんな感じで、実にさまざまなタイプのヒロインが登場。しかもそれだけでなく、1つの作品の中にも、さまざまなタイプの女性キャラが登場するのです。そして彼女たちが互いに反発しあったり、意外なところで共感しあったりする様子が、時にコミカルに、時に繊細に描かれています。
 
 例えば『コマドリさんのこと』での(こればっかりですいません、でもこの作品ホントに面白いと思うので)、コマドリさんと妹とのやり取り。妹は姉とは対照的な性格で色恋沙汰も多く、といっても姉妹の仲が悪いわけではないのですが、やはり衝突することもあり、そのあたりの描写がなかなか味わい深いのです。
 特に、不倫相手と結婚したがる妹に対し、コマドリさんがガチガチの正論で説教して口論となり、妹がコマドリさんを「乙女と年増が一番どんくさい配合でミックスされてる」と評するくだりとか、最高。ここでは、「正しさ」に唯一絶対の価値を置く姉とそうでない妹、それぞれのモノの考え方・感じ方が生き生きと伝わってきます。
 またこの小説には、コマドリさんの女友達や知人女性が何人も登場。彼女たちがまた、細かく面白く描き分けられているのですよ。

 私は以前、映画を作る側の方々に向けて、“「女を描く」よりも「女を描き分ける」ことを重視してほしい”というような文章を書きましたが、あの文章に何がしかの興味を持ってくださった方には、この本(特に『コマドリさんのこと』)をオススメしたいです。

『東京夜話』

1996年(2006年に改題&文庫化)  著者:いしいしんじ
発行元の公式サイト→http://www.shinchosha.co.jp/book/106925/

 またしても、いしいしんじの本です。実は前回の記事に関して、ある方から「昔、中島らも氏がいしい氏の小説(サケとマグロの恋話)を自著で取り上げていて、読んでみたいけど入手方法が不明で‥」という旨のお話を伺いまして。
 「中島らも推薦(たぶん)! サケとマグロの恋! なんか面白そう!」と気になって調べてみたところ、その小説は『とーきょー いしい あるき』という本に掲載されている『クロマグロとシロザケ』であることが判明。ただしこの『とーきょー いしい あるき』、今から13年前に東京書籍が単行本として出版し、3年前に新潮社が『東京夜話』と改題して文庫化したとのことで、私はその文庫版の方を読んでみたわけです。

 で、『クロマグロとシロザケ』。オスのクロマグロと、メスのシロザケの恋を描いた作品。素晴らしいです。私は映画や小説について語る際に、あまり「泣ける」とか「泣いた」とかいう言葉を使いたくないのですが、今回は使ってしまいます。泣きました。まさかマグロとサケの話でこうなるとは思っていなかったので、自分でもビックリです。
 しかし考えてみると、マグロとサケの話だからこそ泣いた、のかもしれません。この小説では本文の前に、クロマグロとシロザケについて、百科事典的に図入りで解説してあります。まず、この内容を頭に入れることが重要。なぜなら両者は、同じ魚といえども回遊場所など生き物としての性質が違っていて、それがストーリーに大きく関係してくるからです。

※以下の文章では、作品の結末に軽く触れています。
 
 クロマグロとシロザケの回遊場所は、ほとんど重なりません。それぞれが南の魚と北の魚であり、そこでしか生きられないのです。しかもクロマグロがずっと海で過ごすのに対し、シロザケはやがて自分の生まれた川へ帰ります。他にも産卵の仕組みなど、色々な面で違っています。
 つまり、たまたま出会った2匹が恋に落ちても、一緒に生きていくことは不可能。だから「彼」と「彼女」は別れを選ぶのですが、最後に築地の魚市場で運命的な再会を果たします。そして、「奇跡」を起こします。悲しく、激しく、エロティックな奇跡。この場面、凄いです。
 
 思うに人間同士の恋話だと、こういう悲しさにはならないんじゃないかと。もちろん人間同士の恋にも色々な障害はあって、例えば国や地域によっては異なる民族の男女が結ばれるのは非常に難しいことですが、それでも「駈け落ちしたら必ずどちらかの体が弱って死んでしまう」とか「生殖の仕組みが違う」ということは無いので、やはりクロマグロとシロザケの悲しみは独特なわけで。その独特の悲しみが、見事に小説として結晶しています。
 
 では、最後の築地の場面以外で私が好きな部分を、書き写しておきます。2匹がまだ付き合っていた頃の描写。
 【泳ぎ疲れて帰るとき、彼女はいつもぼくの胸に触れた。そして、温かいね、と言った。たしかに彼女の体は、陽の射さない海底の洞窟みたいに冷たかった。冷たい体を胸鰭で抱きしめると、彼女はぼくにぴったりと身を寄せた。今なら百匹のダイオウイカにだって勝ってみせる、と思った。】

 ところでこの『東京夜話』には、18篇の小説が掲載されています。非常に短いものもあるので、短編集というよりショートショート集といった方がいいかもしれません。どの小説も、東京の特定の地域が舞台になっています。
 例えば『クロマグロとシロザケ』は先述のように築地で、他には『ベガ星人はアップルパイが得意なの』は原宿、『すごい虎』は柴又、『アメーバ横丁の女』は上野・アメ横、『もんすら様』は巣鴨といった具合(とりあえずタイトルの面白いものを列記)。
 
 前回の『四とそれ以上の国』の記事では、「現実の四国と、小説の中のシュールな四国が絡み合って混乱」したと書きましたが、今回は、非現実的でありつつも意味や意図の分かりやすい作品が多かったので、混乱はしませんでした。単純に読みやすさで比較すると、『東京夜話』のほうが読みやすいです。あと今回、作品によっては、かなりギャグが多いです。下ネタもあり。

 ちなみに私がこの本の中で、『クロマグロ~』の次に好きなのは、新宿ゴールデン街を舞台にした『天使はジェット気流に乗って』。というか、これに出てくるダッチワイフがすごく可愛いのです。作品中にも【たぶん、男だって女だって、彼女みたいなダッチワイフにはみんな魅かれるのだと思う。】と書いてありますが、その通り。惚れました。そして、泣きました。

『四とそれ以上の国』

2008年 著者:いしいしんじ 
発行元の公式サイト→http://www.bunshun.co.jp/book_db/3/27/70/9784163277004.shtml

 書評などで紹介されているのを目にするたび少し気になっていた作家、いしいしんじ。気になりつつもまだ作品を読んでいなかったのですが、今回彼が四国を舞台にした短編集を発表したと知り、四国出身者としての興味もあって読んでみました。
 まず、タイトルがいいですねえ。『四とそれ以上の国』。これは本全体のタイトルで、中に収められている5篇の短編小説のそれは、『塩』・『峠』・『道』・『渦』・『藍』。いずれも内容は、かなりシュールです。絵で言えば、細密な抽象画風。一見すると(一読すると)「ワケが分からん」という感じですが、その世界にグッと入ってしまえば、怖かったり面白かったり嬉しかったり。感情を揺さぶられます。また「意味」を見つけたい人は、その人なりに見つけることもできそうです。

 例えば、『塩』の序盤にこんな一文があります。
 【父はいろんな女性と関係がある人で、仁尾町の俺の知っているほぼすべての女性らしい女性と、関係があったという人もいたが、俺は十二人きょうだいの末っ子で、十二人にはいちおう戸籍があり、それぞれ、故人や義理を合わせ、八人の母親がいた。】
 
 通常この設定だと、一族のドロドロした人間模様がメロドラマチックに描かれたりするものですが、この小説の場合、最初から最後までそういう雰囲気はありません。なにしろ、その12人きょうだいの四女はいつも瓶の中に入っているし、きょうだいのうちの4人を引き取った箱屋の女主人は、腕に筋が盛り上がっていて、その筋が手首の方に動いたり、「ぴょこたん、ぴょこたん」と跳ねあがったりするのです。何じゃそれ? って感じですよね。
 
 ではひたすらに摩訶不思議一辺倒なのかというと、そうでもなく、その箱屋の女主人については、こんな描写もあります。
 【女主人は、世間的に、一見どうしようもないと思われる人間にも、さらに一層、どうしようもなくなる可能性がある、ということをわかっていた。】
 どうです、何か起こりそうでしょう? 実際、起こります。シュールであると同時に、人の世の性(さが)を見据えたような味わいがあるのです。『塩』だけでなく、他の4篇も同様。

 ただ私自身は、もう少し摩訶不思議度の低い小説が好みというか。最初はある程度現実的に始まって、途中から知らず知らずのうちに不思議な世界に導かれるような作品の方が、好きです。映画に例えると、キム・ギドク監督作品のような。
 まあ今回は故郷の四国が舞台なので、自分の知っている現実の四国と、小説の中のシュールな四国が絡み合って混乱し、やや読み辛かったのかもしれません。特に自分の生まれ育った某地域が出てくると、そこにまつわる個人的・現実的な事柄が意識の中にチラついて、ちょっと邪魔くさかったです。奇妙な面白さもありましたが。ちなみに著者のいしい氏は大阪出身だそうです。

 余談ですが、宇和島が舞台になっている部分を読んでいる時、やたらと「凸凹神社、出てきたらええのにな~」と期待してしまいました(結局出てこなかった)。私は宇和島に住んだことはないものの何度か訪れていて、そのたびに凸凹神社を見学しています。はい、おすすめスポットです。エロについて真面目に研究(?)している方限定ですが。

『訪問者』

 1980年 著者:萩尾望都

 前の記事の最後に触れた『訪問者』。先日、改めて読み直していてふと気づきました。このマンガは構成の面で、以前取り上げた映画『人狼 JIN-ROH』と少し似ています。
 両方とも、あるひとつの童話的な物語のイメージが作品全体を貫いていて、しかもそのことがラストで非常に効果を上げているのです。具体的にいうと『人狼』ではかの有名な「赤頭巾」、そして『訪問者』の場合、主人公の父親が語った「神さまがきた話」のイメージが、全編にわたって登場します。

 幼い少年オスカーは、売れない写真家である父グスタフと、商社に勤める母ヘラとの3人暮らし。しかし実は、オスカーとグスタフに血のつながりはありません。夫婦の間に子供ができなかったこと、また放浪癖のあるグスタフを家に引きとめたかったことなどから、ヘラが他の男性との間に子供を作ったのです。グスタフはそのことを知っていて、オスカー自身もうっすらと気付いていました。
 そしてオスカーが9歳の時、グスタフが衝動的にヘラを殺してしまい、グスタフはオスカーを連れて放浪の旅に出ます。
 
 冒頭近く(オスカーが6歳くらいの頃)、父子2人で猟について話し合っているとき、グスタフはオスカーに「神さまがきた話」を語り聞かせます。「あるとき神さまが、森の動物をたくさん殺している狩人を裁こうと彼の家にやってきた。しかし、家の中で小さな子供が眠っているのを見て裁くのをやめ、きた道を帰って行った」というような物語。(ちなみにこれ、聖書か何かに出てきそうな感じですが、単行本に掲載されている解説によると、著者の創作なのだそうです。)

 そしてその後オスカーは、何かあるたびにこの「神さまがきた話」を思い出し、自分の境遇や気持ちに重ね合わせます。例えばヘラが死んだとき、捜査のため家にやってきた刑事に対して、彼はこう言います。「たとえあなたが裁きをおこなえる神さまでも、子どものいる家にきてはいけないんだよ」。
 
 オスカーは、父が母を殺したことを知っていて、父をかばい続けます。母を嫌っていたわけではありません。父も母もそれぞれ大切に思っていたはず。しかしやはり、母亡きあと父までが自分の傍から居なくなることに恐怖を感じたのでしょうし、そして何よりも、父のことが大好きだったのでしょう。
 そう、彼は、血のつながりなど無くても、父のことが大好きなのです。また、父が売れない写真家であること、すなわち経済力があまり無いなどということは、どうでもいいのです。しかし父は、血のつながりやその他諸々のことを、常に気にしていたようです。

 ※以下の文章では、作品の結末に触れています。

 結局この意識の違いが、2人を別れさせることになります。というか、私はそのように解釈しました。オスカーはグスタフを誰よりも「本当の父」として必要としていたけれど、グスタフはオスカーのその気持ちを、完全に理解することはできなかったのでしょう。
 そしてこのラストの切ない別れにおいて、オスカーはまたしてもあの「神さまがきた話」を思い出し、心の中で、ある言葉をつぶやきます。この場面、素晴らしいです。素晴らしく哀しい。世の中に存在するある種の哀しみ、非常に近しいはずの人と分かり合えなかったことの哀しみを、見事に掬いあげています。

 ところで、この文章を書いていて思い出したのですが。「父と息子」を描いた作品として、もうひとつ私が好きなのは、『イゴールの約束』。ダルデンヌ兄弟の映画です。いつかこれについても書くつもりです。

『映画時代 創刊号』

2008年9月発行 編集・企画・制作:活檄プロダクション(佐藤洋笑、港岳彦)
公式ブログ→http://eiga-jidai.seesaa.net/
 
 以前、創刊準備号の読後感想記事を書きましたが、今月発行された創刊号についても少し書いておこうと思います。今号の特集タイトルは「テロルの季節」。前号と同じく、特集テーマというよりも巻頭インタビュー(井土紀州)に興味があって読みました。
 
 というのも私は、井土監督の『ラザロ-LAZARUS-』3部作を公開時に観て、3作のうち、ヒロインがテロリストになってからの2作(『蒼ざめたる馬』と『複製の廃墟』)に物足りなさを感じたからです。
 簡単に言うと、ヒロインの敵にあたる登場人物(富裕層や権力者)の中に、手ごわい人物が居ない。皆、アホだったりお坊ちゃんだったり単純な悪役キャラだったり‥‥。これではスリルや緊張感に欠けるし、そもそも富裕層や権力者の中にはしたたかな人物もかなり居るはずなので(そうでなければ階級や権力は維持できない)、その種の人物が登場しないのは、格差社会やテロを描いた映画としてどうなの? と思ったわけです。(詳しくは公開時に書いた記事をどうぞ。)

 今回のインタビューの中で、井土監督はこのように語っています。
 ≪(前略)支配階級が自分たちに不満の矛先を向けさせないように腐心してきたのが、まさにこの二十年、三十年だったと思うんです。誰かを狙ってテロを仕掛けるということがあるとすれば、その「誰か」を見えなくしてしまう。ドラマでもそうですよ。昔は公害があれば公害を生んだ企業というものがいた。『ゴジラVSへドラ』(’71)ではヘドロが映された。見えやすい形での悪があり、青少年たちの心を奮い立たせた。でもそれを巧みに目くらましして敵を拡散し、「そんなことを考えるお前が一番悪い」というメンタリティを形成していった。(後略)≫
 
 つまり井土監督は、「支配者側は巧みだ」という認識を強く持っていると。ならばその認識を、『ラザロ』でも具体的に表現してほしかったです。要するに、支配者側の巧みさを体現するような人物を登場させてほしかった。そのほうが映画としての面白みも増したし、監督の持っている危機感のようなものが、より観客に伝わったんじゃないでしょうか。今後の作品に期待します。

 ところで、この創刊号自体について。まあ、これは既に色んな人が指摘しているとは思いますが、創刊準備号で始まった「連載 マチバ<町場>のカツドウ屋列伝」が今号に載ってないのは、休載なのか何なのか(事情説明が無いような‥‥)。ピンク映画人へのロング・インタビュー連載ということで、他ではあまり読めない企画だし、できれば続けてほしいです。

『ポプラの秋』

1997年発行(新潮文庫書きおろし作品) 著者:湯本香樹実

 湯本香樹実といえば、相米監督が映画化した小説『夏の庭』で有名ですが、私が彼女に注目するようになったキッカケは、『ボーイズ・イン・ザ・シネマ』(キネマ旬報社)というエッセイ集。これに掲載されている、映画『スタンド・バイ・ミー』(というよりも原作であるスティーヴン・キングの『The Body』)についての文章が、非常に鮮烈だったのです。
 
 乱暴に要約すると、「子どものころ心に引っかかったことにきちんと対峙せず、放置したまま記憶の底に眠らせていると、大人になってからその記憶が凶器となり本人をダメにしてしまう」というような内容。
 そして彼女は、そのダメになった状態を「死ぬまで腐ったお子様のまま」と表現しています。腐ったお子様! 「うわ、きっつい言い方するなあ」と思うと同時に、自分にもそういう傾向があることに気付き、彼女の洞察力と表現力にすっかり敬服してしまいました。

 この『ポプラの秋』も、ある意味「子ども時代の記憶」に関する作品です。恋愛や仕事で挫折し母親ともうまくいっていない25歳の女性・千秋が、幼い頃の知人である老婆の死をきっかけに、当時を回想する‥‥という構成。
 千秋は小学校1年のとき父を亡くし、それまで住んでいた家を出て、庭にポプラの木があるアパート「ポプラ荘」で母と2人暮らしを始めます。大家のお婆さんは一風変わっていて、自分は「あの世」に居る人に手紙を届けることができる、と言い張るので、千秋は父への手紙を何通もお婆さんに預け、母も1通だけ預けます。そして。

※以下、かなりネタばれ気味です。

 終盤で、現在の(25歳の)千秋は初めて、ある事実を知ります。長いあいだ彼女には知らされていなかった、父に関する事実。
 詳述は避けますが、それはかなり衝撃的な事実です。しかし千秋は動揺も落胆もせず、むしろ爽やかで前向きな気持ちになっていきます。なぜなら、その事実は衝撃的ではあるけれど、長年のわだかまりを払拭してくれるものだったから。母に対するわだかまりを。
 千秋から見ると、母には昔から不可解な言動が多く、それゆえにあまりうまく接することができなかったわけですが、事実を知ることによって、初めて母を理解できるようになるのです。しかも、母に対する深い感謝の気持ちが湧いてきます。
 
 そしてこの小説は、全編を通じて主人公の視点で書かれていることもあって、読者が主人公に共感しやすいので、最後に読者も千秋と同じような気持ちになれる‥‥はずなのですが、私は今ひとつ、そうなれませんでした。むしろ、千秋がすっかり前向きになっていることに対して、少々違和感を抱いてしまったのです。
 
 というのも、終盤で明かされる事実は、たしかに母への感謝の気持ちをもたらすものではあるものの、それと同時に、父への複雑な感情をもたらすものだ(と私は思う)からです。
 父の選択と、それに際して取った行動(ある人へ、ある物を残した)。どちらも妻や子供にとってはかなり残酷なことで、前者は何か事情があったのだろうから仕方ないとしても、私は後者が気になります。妻子にはそれを残していないわけだし。千秋はなぜ、この事実に動揺しないのだろう?
 
 もちろん「今となっては些細なことだから、動揺などしないのだ」という解釈は可能でしょう。しかし彼女は長い間、父に対して美しいイメージだけを抱いて生きてきたのです。実際、千秋の記憶のなかの父の姿が何度か描写されていて、それらはいずれも穏やかで優しくて包容力のある姿ばかり。そういう姿だけを20年近くも心に抱いていたところに、いきなり父の、ある種残酷な選択や行動を知って、少しも動揺しないのでしょうか。

 私はこの小説をかなり好きではあるのですが、終盤での、事実を知ってからの主人公の完璧な爽やかさには、やはり疑問を感じてしまいます。彼女はまず父の選択を「それでいいじゃないか」と肯定し、次に母に感謝し、やがて自分の今後について前向きな計画を立て‥‥と、一点の曇りも無いのです。何だか屈折が無さすぎるというか、父に対しても寛大すぎるというか。
 しかし今、ふと気付きました。こういう読後感を抱いてしまう(主人公の寛大さに共感できない)最大の理由は、私自身がまだ「腐ったお子様」だから、なのかもしれません。

『酔客万来』

正式タイトルは『酔客万来 集団的押し掛けインタビュー』
2007年発行 編集:酒とつまみ編集部 インタビューされている人:中島らも、伊崎脩五郎、蝶野正洋、みうらじゅん、高田渡
『酒とつまみ』公式サイト→http://www.saketsuma.com/

 あっついですねー。これだけ暑いと、世の中の呑み助さんたちはきっと「暑さ」を言い訳にして、ビールやらホッピーやら発泡酒やら、とにかく冷やし系のお酒をガバガバ飲みまくっていることでしょう(私もちょっとだけ‥‥)。そんなわけで、今回は「酒に関する本」をご紹介。映画とは関係ありません、多分。
 
 さて、まず私の好きなミニコミ誌で『酒とつまみ』というのがありまして。内容はまあタイトルのとおりで、ひたすら「酒」と「つまみ」を語る雑誌。といっても、酒に関する気の利いた蘊蓄や、洒落たお店を紹介する記事などは載っていません。では、どんな記事が載っているのかというと。
 例えば「酒飲み川柳」という連載コーナー。読者が酒飲みの実態や心境を川柳で表現して投稿し、編集部が「今号の一席」を選んでおります。最新号の一席は、「俺はゲロ 青空球児は ゲロゲーロ」。他の作品には、「立ちションの はずがズボンの 尻濡らす」なんていうのもあります。
 
 だいたいお分かりかと思いますが、この雑誌、全体的にゲロや下痢の話題が多いです。あと、「痛風になった」とか「γ-GTPの数値が異常に高い」などのフレーズも頻出。とにかく、酒飲みのバカな部分をかき集めたような雑誌です。編集者も読者も飲兵衛で、酒による失敗や体調不良が多く、そんな自分たちをバカだと認識したうえで楽しんでいる感じ。

 その『酒とつまみ』誌の名物連載「酔客万来」の、創刊号から第5号までの掲載記事に加筆して単行本化したものが、『酔客万来 集団的押し掛けインタビュー』。内容はこれまたタイトルどおりで、酒好きの著名人に編集部の面々が飲み屋でインタビューしたもの。もちろんアルコールまみれなので、インタビュー本というよりも「宴会の詳しい記録」みたいになっています。
 
 登場する著名人は、中島らも、伊崎脩五郎、蝶野正洋、みうらじゅん、高田渡(掲載順)。ご存じのように、最初と最後のお2人は、昼間の早い時間から飲み屋で目撃されることにかけては西と東の両巨頭だった、そして共に50代で亡くなった方たちです。そんなわけでやはり、らも氏と高田氏のインタビューは特に印象的。
 
 例えば、らも氏は最初ほとんど喋らず、手が若干震えているような状態なのに、酒がすすむと次第に饒舌になり、手の震えも無くなります。これはつまり‥‥ってことで、読んでいて何とも言えない気持ちに。
 また高田氏はトリなので、彼のインタビューの幕切れが本自体の幕切れになるわけですが、この部分は読んでいてウルッときます。発言も、締めの文章も、そして写真も。あえて詳述はしませんので、興味のある方は是非ご一読を。
 
 お2人に関しては、どうしても「若いうちに亡くなった」という事実を意識してしまうので、やや感傷的な読み方になってしまいますが、しかし『酒とつまみ』編集部が作った本だけあってバカ話もガンガン登場。基本的には楽しく読めますよ。らも氏も高田氏も、実に明るく面白く、その種の話をしてくれています。
 先ほど高田氏のインタビューの幕切れが云々、と書きましたが、これも一旦シリアスに終わったかに見えて最後の最後にまた○○話が出てくるという、『酒つま』らしい構成になっています。

 ところで、いかにも文科系な著名人が並ぶ中、なぜプロレスの蝶野氏が登場しているのかというと。なんと『酒つま』の編集長と蝶野氏は、中学校の同級生だったとか。そんなわけで、中学時代の思い出から有名レスラーの裏エピソードまで、多彩な話に花が咲いています。ちなみにこの本では、ゲストが何をどれくらい注文したかということも、かなり細かく書かれているので、プロレスラーがいかによく飲みよく食べるかが具体的に分かります。
 
 つぎに伊崎氏。彼は‥‥やたらと下痢の話をしています。ご本人いわく、「軟便友の会」の会長だそうで。ハア~。このインタビューを読むまで、こんな変な人だとは知りませんでした(←呆れながらも褒めている)。
 そしてみうら氏は、「京都って、ビンビンじゃない半勃ちの男たちが楽しむ街なんですね(中略)“はんなり”っていう言葉があるでしょ。あれはね、半勃ちのことなんだ」などと、お得意の屁理屈系エロ・トークを披露。さらに彼、『酒とつまみ』の見た目について「全ページ白黒の『月刊住職』みたいな雑誌」と言ったりして、さすがに比喩表現が巧いです。

 総評。いわゆる無頼派気取り(“酒飲みな自分”にウットリしているような人)でなく、ただ単に「酒が好き!」な人たちが登場しているところが、この本の美点だと思います。

『映画時代 創刊準備号』

編集・企画・制作:活檄プロダクション(河田拓也、膳場岳人、佐藤洋笑)
公式ブログ→http://eiga-jidai.seesaa.net/

 前回の記事の続きです。新雑誌『映画時代』今号の特集は、「神代辰巳×萩原健一」。最近のいくつかの記事で書いてきたように、私は神代監督やショーケンのファンではないし、彼らに対して特別な思い入れもありません。では何故この雑誌を読んだのかというと、いろいろありますが、ひとつには高田純氏のインタビューが載っているから。
 高田氏は、『恋文』と『離婚しない女』で神代監督と組んだ脚本家。で、『恋文』は置いといて、ここで問題にしたいのは『離婚しない女』。これ、私にとってはどうにも理解不能な映画なのです。たしか5年くらい前にシネマアートンで観て、「何じゃこれ?!」。かなり唖然としました。
 
 ショーケン演じる男と倍賞姉妹演じる2人の女による三角関係。しかしその女たちが2人とも、妙に自己愛が強く子供っぽいキャラクターで全く魅力が感じられず、なぜ男が彼女たちの間で揺れ動くのか、私には理解できなかったのです。
 というか、監督が彼女たちをそういうキャラクターとして認識している気配が無く、むしろ「愛すべき女たち」として認識しているようにも見え、作品と自分との間に大きな溝を感じました。もっとハッキリ書くと、シリアスなタッチの映画なのに、観ながら思わず笑ったり、心の中でツッコミを入れまくったりしていました。

 そんなわけで、神代監督が亡くなって10年以上経った今、「脚本家の方がこの映画についてどう思っているのか、制作の裏話も含めいろいろ書いてあるかも」と興味をひかれてインタビュー記事を読んだのですが‥‥。
 ない。全くと言っていいほど語られてない。『恋文』については、脚本執筆時の監督とのやり取りやラストシーンの見方などについて、具体的に語られているのに。そもそもインタビュアーの方(河田拓也氏)からして、『離婚しない女』に関する質問を一切してないんですよね。
 
 や、まあ、もしかしたら、実際には質問も答えもあったのに紙面構成の都合でカットしたのかもしれませんが。それにしても、ちょっと不自然なのではないでしょーか。例えば、コンビ作5本のうち1本についてだけ言及が無い、というのならまだ分かりますが、全部で2本しかないのにそのうちの1本について言及ナシとは。
 読み終わって、「高田氏は『離婚しない女』について語るのがイヤなのかなあ?」などと余計なことを考えてしまいました。また、河田氏は別の記事でこの映画についてやや批判的なレビューを書いているので、それならば尚のこと、高田氏に批判や疑問をぶつけてほしかったです。
プロフィール

サイボク

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
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