『ラザロ─LAZARUS─』

2006年 日本 監督・脚本:井土紀州(3篇すべて)
『蒼ざめたる馬』篇 脚本:板倉一成 出演:東美伽、弓井茉那、成田里奈
『複製の廃墟』篇 脚本:森田草太、遠藤晶 出演:東美伽、伊藤清美
『朝日のあたる家』篇 脚本:西村武訓、吉岡文平 出演:東美伽、堀田佳世子、小田篤


 上記の3篇で構成された自主制作映画、『ラザロ─LAZARUS─』。この総合タイトルも各篇のタイトルも、いかにも「観念的な芸術映画」という感じですが、実際に観てみると全くそういう作品ではありません。ハッキリしたストーリーがある上に、犯罪サスペンスや刑事モノや恋愛モノ、そしてホラー(ゾンビ)の要素まで入っているので、「娯楽映画」と言ってもいいでしょう。
 ただし自主映画ということもあって、今の日本のメジャーな商業映画では描きにくい題材を扱っています。
 
 『蒼ざめたる馬』では、主人公である若い女性・マユミが、自分よりさらに若い女性たちを率いて、資産家の息子たちを殺していきます。「金持ちのボンボンが1人死んだら、それだけ世の中が平等になる」という主張のもとに。
 『複製の廃墟』でのマユミは、謎の女・ナツエとともに「経済テロ」として大量の偽札を世間にバラ撒きます。捜査を担当する若手刑事は、最初犯人とは気付かずマユミに惹かれていくのですが‥‥。
 『朝日のあたる家』は、マユミが犯罪に手を染めるまでを描いた、いわゆる前日譚。とある地方都市で、恋人との交際を深めつつ地道に働いているマユミの前に、東京で画家を目指しているはずの妹が突然現れ、思わぬ事態を引き起こします。

 私は上に書いた順番で3篇を観ていったのですが、最初の『蒼ざめたる馬』と次の『複製の廃墟』は、正直言ってあまりグッときませんでした。犯罪映画の場合、やはり犯罪者に迫力があった方が面白いと思うのですが、この2篇のマユミにはあまり迫力が無いのです。なぜなら、彼女は騙しやすい相手しか騙してないし、誘導しやすい相手しか誘導していないから。
 
 例えば『蒼ざめたる馬』で、マユミたちは資産家の息子を罠にハメていくのですが、その標的となった青年たちの人物像は、「あんなどうしようもないアホ」とマユミが語るボンボンや、のほほんとした優しげなお坊ちゃん。いかにも騙しやすそうなタイプです。
 実際は資産家の息子といってもアホばっかりではなく、逆にとても勘の鋭い人もいますよね。きわめて裕福に生まれついたがゆえに、却って世の中を斜めに見ているタイプ。そういう青年をも罠にハメるという展開なら、もっと面白くしかも深くなったと思います。
 
 さらに『複製の廃墟』では、マユミが若手刑事を誘導して自分に惹きつける(途中からは彼に好意を抱く)のですが、この刑事がまた非常に真っすぐでお坊ちゃん的。ちなみに、それ以前にも彼女に誘導された男性が居て(偽札を作った人物)、こちらはお坊ちゃんではないけれど、別の意味で騙されやすいタイプです。
 とにかく、「知恵と気迫で手ごわい相手を陥れる」というエピソードが無かったのは残念。結局、マユミという人物のみならず彼女の主張にも、あまり知性や迫力が感じられなかったです。

 そして最後に観た『朝日のあたる家』。これは非常にグッときました。昨今何かと話題になっている「格差社会」や「グローバル経済」といった問題の複雑さが、具体的かつ切実に描かれているからです。
 また、この作品に登場する寂れた商店街(シャッター街)の映像が素晴らしいです。作品を象徴する圧倒的な風景を探し出し的確に撮影するという手法が、みごとに効果を上げています。これは多分、井土紀州監督が、師匠である瀬々敬久監督から学び取ったことなのでしょう。
 
 最初の2篇には文句をつけましたけど、全体としては面白かったですし、観た後いろいろ語れる映画です。興味のある方は、ぜひご覧になってみてください。
 東京の“ポレポレ東中野”では全篇上映は終わってしまいましたが、7月28日から8月3日まで『朝日のあたる家』のみ上映。その後は大阪・名古屋・広島などで全篇上映予定あり。
 詳しくは公式サイトhttp://spiritualmovies.lomo.jp/lazarus.htmlをどうぞ。


《追記(8月8日)》
都内の別の劇場でアンコール上映が決まりました。8月11日~24日、渋谷のアップリンクXにて。詳細はhttp://www.uplink.co.jp/x/log/002245.phpをご覧ください。

 あと、作品評の補足を。
 
 『蒼ざめたる馬』と『複製の廃墟』について。“「知恵と気迫で手ごわい相手を陥れる」というエピソードが無かったのは残念”と書きましたが、これは作品の面白さだけでなく、テーマにも関わる重要な問題。
 この2篇に登場する金持ちや刑事は、総じてアホだったりお坊ちゃんだったりします。まあ、さすがにベテラン刑事だけはそういうキャラクターではありませんが、彼も結局、それほど手ごわい相手ではない上に、マユミたちのことを「ウジ虫ども」と呼ぶなど、かなりよくあるタイプの単純な悪役キャラに見えます。
 
 つまり、主人公の敵である富裕層や権力者が、あまり頭の良くない人物や単純な人物として描かれているわけです。これには疑問を感じました。
 だってどう考えても、富裕層や権力者の中には、したたかな人たちが少なからず居るはずで、だからこそ階級や権力の構造がずっと維持されているのです。そのことをガッチリと押さえていないこの2篇は、格差社会やテロを描いた映画としても、中途半端だと思いました。

監督率いるプロダクションの名前について

 現在発売中の『映画秘宝』最新号に、渡辺文樹・高橋洋・柳下毅一郎の3氏による座談会の模様が掲載されています。この中で、柳下氏がフミキ監督にクリント・イーストウッド監督の話を振り、フミキ監督がイーストウッドの近作に対する感想を述べ、さらに柳下氏が両監督の共通点を語る‥‥という流れがあるのですが、ここを読んで私は「ついでにアレも訊いてほしかったな~」と思いました。
 
 アレというのは、フミキ監督のプロダクションの名前「マルパソ」の由来について、です。なぜならこの名前、イーストウッドのそれと同じだからです。私は昔から、このことが少し気になっています。フミキ氏のように独立独歩の活動をしている(自主制作映画を自ら映写して各地を回っている)人が、世界的な著名人と同じプロダクション名を使っているという事実は、ちょっと意外な感じがするし、同時に面白くもあるからです。
 
 まあ、この「マルパソ」という言葉はスペイン語で「悪路」「険しい道」という意味なので、「俺は敢えて悪路を突き進むぞ!」というフミキ氏の決意表明なのだとは思いますが、今回の座談会で『ミスティック・リバー』や『ミリオンダラー・ベイビー』に対してわりと好意的な発言をしているので、やっぱりイーストウッドのファンなのかな~という気もします。「出演する場合は常に主役か準主役」という点も似てますし。
 ちなみに上記の謎に関しては、もしかしたら他のインタビューなどで明かされていて私が知らないだけかもしれないので、ご存知の方がいらしたら教えてください。
 
 さて、監督率いるプロダクションの名前といえば、個人的にもうひとつ印象的なものがあります。それは柳町光男監督のプロダクション名「群狼」。
 私は昔、フミキ氏&柳町氏のトークイベントを生で観たことがあるので、そこからの連想かもしれませんが、それにしてもこの「群狼」という名前はけっこう強烈だと思います。だって要するに「うちのメンバーは全員、狼だぜ!」ってことですよね。でもそのトークのとき拝見した柳町氏は、フミキ氏の極端に強気な発言に圧倒されてか、あまり狼という感じではなかったです。

『どつかれてアンダルシア(仮)』

1999年 スペイン 監督・脚本:アレックス・デ・ラ・イグレシア 脚本:ホルヘ・ゲリカエチェバリア 出演:サンティアゴ・セグラ、エル・グラン・ワイオミング

 アメリカ映画の次はヨーロッパ映画です。ヨーロッパ映画というと、私は若い頃、フランスやイタリアの芸術っぽい映画を気張って観ていたのですが、最近はこういうコテコテな作品の方が好きですねー。『どつかれてアンダルシア(仮)』。ちなみに(仮)も正式な邦題の一部です。
 
 ズバリ、「どつき漫才」を題材にした映画。作品自体はフィクションですが、こんな映画が作られるということは、スペインにも実際にその種の漫才があるのでしょうか。
 まあそれは置いといて、どんな「どつき」なのかというと、ビンタ。頬をパーンと引っぱたくわけです。で、このビンタされる方の顔の皮膚が、なんというかブニュブニュッとしていて独特なんです。しかもほぼ無表情。これがウケて国民的大スターになる2人組を描いたブラック・コメディです。
 
 1973年のスペイン。田舎でくすぶっていた2人の男が芸能界で職を得ようと都会へ行き、「ブルーノ&ニノ」という漫才コンビを結成。たまたま舞台でブルーノがニノの頬をビンタしたのが大ウケし、やがてスターに。しかし富と名声を得るにつれ、彼らの仲はどんどん険悪になり‥‥。

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『ナッシュビル』

1975年 アメリカ 監督:ロバート・アルトマン 脚本:ジョーン・テュークスベリー 出演:ジェラルディン・チャップリン、シェリー・デュヴァル、キース・キャラダインほか、とにかく大勢
 
 これまでアジア映画ばかり取り上げてきて、「そろそろ欧米の作品も‥」と思っていたところ、先日ちょうど映画祭で『ナッシュビル』を観ることができたので、この作品について書きます。
 
 アメリカでもっとも保守的な街であり、カントリー・ミュージックのメッカでもあるナッシュビル。大統領選挙を控え、ウォーカー候補の宣伝カーが走り回る中、さまざまな人々がこの街で過ごしています。
 地元の名士でカントリー歌手のヘヴン、選挙参謀のジョン、イギリスのBBCから派遣された記者と称する女性オパール。妻が入院中の老人ミスター・グリーン、その姪のL・A・ジョーン。療養中のカントリー歌手バーバラ、ロック・ミュージシャンのトム、歌手志望のスーリーン。ベトナム帰還兵のグレン、歌手を夢見て夫の元から逃げてきたアルバカーキ、過保護な母を持つ家出青年ケニーなど(メインの登場人物だけで20人以上)。
 映画では、彼らの数日間が描かれます。
 
 この作品はロバート・アルトマン監督の代表作といわれながら、諸事情により日本ではソフト化されておらず、長いあいだ上映もされていませんでした。私の場合、アルトマンの映画はけっこう好きでいろいろ観ているのですが、『ナッシュビル』は今回が初見です。
 
 観ていちばんに感じたのは、アルトマンはやはり反ハリウッド的・非ハリウッド的だということ。他の作品にも勿論そういう傾向はありますが、この作品では特に顕著な気がします。
 
 標準的な(ヒットを目指している)ハリウッド映画にとって大切な要素のひとつは、「登場人物が成長すること」です。愚かな人間が聡明さを獲得したり、利己的な人間が他人を思いやるようになったり、孤独な人間に友人や恋人ができたり。とにかく人物のマイナス面がプラス方向に変化することが大事なのですね。それによって観客は気持ちよく劇場を後にすることができてヒットにもつながる、というわけです。
 ところが『ナッシュビル』では、これだけ大勢の人物が出てくるのに、誰も成長しません。バカっぽい人はバカっぽいまま、軽薄な人は軽薄なまま、利己的な人は利己的なままです。

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『ヴァイブレータ』

2003年 日本 監督:廣木隆一 脚本:荒井晴彦 出演:寺島しのぶ、大森南朋

 ブログ名にある「こびりつき映画」とは、「頭にこびりついている映画」のこと。そして、こびりついている理由というのは、「凄く好きだから」「好き嫌いは別として印象が強烈だったから」「強い疑問を感じて引っかかったから」などです。
 さて、この『ヴァイブレータ』は、まさに「疑問を感じたから、こびりついている映画」。封切り時に劇場で観た際、(非常に細かい部分にですが)強い疑問を感じ、また今回これを書くにあたってDVDで再見し、やはり当時と同じことを感じました。
 
 フリーのルポライター、早川玲、31歳。頭の中に氾濫する声や不眠に悩まされ、アルコール依存と摂食障害(食べ吐き)に陥っている彼女は、コンビニで知り合った男・岡部の運転する長距離トラックに乗り込み、彼の旅の道連れとなる‥‥。
 原作は赤坂真理による同名の小説。私は映画を観るよりもかなり前に、たまたま原作を読んでいたので、無意識のうちに原作と比較しながら観ていました。
 
 まず、主人公の玲がアルコールや食べ吐きに依存するようになった、根本的な原因。これについては映画も原作も、奥底に親子関係の問題があることを示しています。
 中学生のとき不登校になり、「精神科に行きたい」と言った玲。彼女に対し母親は、転校を持ちかけます。理由は「世間体が悪いから」。さらに、祖父の家に住民票を移せばいい、とその地域を下見に行って、母親は独り言のように呟きます。「いったい誰のためにこんな田舎に」。そして父親に関するエピソードは登場しません。死別したのか、生き別れたのか、一緒に住んでいても全く子どもと関わろうとしない人だったのか。いずれにせよ、父親は実質的に不在だったのでしょう。
 
 つまり玲は、少女時代に生きづらくなったとき、父親からも母親からも全く心配してもらえなかったというわけです(母親が心配していたのは玲のことではなく、「自分が世間からどう見られているか」ということ)。
 だから玲には、「真に親的なやさしさ」に対する渇望があります。実際、映画でも原作でも、その中学時代の記憶がきっかけで不安と混乱に襲われたあと、岡部に抱かれて泣いているとき、彼女の心の中に「おかあさん」という言葉が沸き上がってきます(映画では、字幕でこの言葉が表示されます)。
 
 そしてこの渇望を面白い形で表現した描写が、原作には出てきます。岡部からかつてホテトル嬢のマネージャーをしていた頃の話を聞いた玲が、「もし自分がホテトル嬢で、岡部がマネージャーだったら‥‥」と想像するくだり。
 客から酷い扱いを受けたとき岡部が助けてくれて、そのあと《彼はあたしの頭を撫でてくれる。事務所に帰ってお弁当を食べる。お茶と甘いお菓子をとる。大変だったなともう一度、頭を撫でられる。》
 この《》の中は小説をそのまま引用したものですが、これ、まるで誘拐された子どもが無事に帰ってきた場合の理想的な親子の姿みたいです。特に、時間をおいて2度も頭を撫でるところとか。
 
 しかし。映画ではこの部分が何故か中途半端なのです。客から酷い扱いを受けたとき岡部が助けてくれて‥‥というところまでは同じなのですが、そのあと。岡部が玲に、「何か美味いもんでも食ってくか?」と言うだけなのです。つまり、原作には濃厚にあった「理想的な親子の雰囲気」が激減しているのです。
 ここでの岡部の言動には、やはり親的な要素をもっと入れて欲しかったです。というか、何故わざわざその要素を排除したのか、疑問に思います。
 
 ちなみに私は、何でもかんでも原作の通りにするべきだと言いたいわけではありません。もしこの映画が、原作とは違って、玲の「親に対する思い」にあまり触れていないのであれば、ホテトル嬢のシークエンスもこのままで違和感は無いです。しかし、クライマックスの重要な部分(岡部の胸に抱かれて泣いているとき)に「おかあさん」という言葉を出している以上、そこに至るまでの要所要所で、玲の渇望のありようを充分に見せておくべきだと思うのです。

『真夏のおでん』 観劇

 前に告知記事を書いた『真夏のおでん』、先日観てきました。昭和58年の小さな商店街を舞台にしたお芝居です。酒屋、魚屋、豆腐屋など昔ながらの個人商店が並ぶ街に、コンビニという強敵が出現。いろいろあって酒屋のオッサンとコンビ二店長が対立し、互いに店の存続をかけて花火大会の日の売り上げを競うことに‥‥。

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追悼 エドワード・ヤン監督

 先日『ラブ ゴーゴー』の記事の最後に、「エドワード・ヤンも、新作の情報を聞かないですよね。ううむ‥‥」と書いたばかりだったので、今朝ヤン監督の訃報を読んで驚きました。詳しい事情は分かりませんが、死因は癌ということなので、もしかしたら長いあいだ闘病生活を送られていたのかもしれません。
 
 ヤン監督は1947年、上海生まれ。育ったのは台北。台湾の大学を卒業後、さらにアメリカの複数の大学で、コンピュータ工学や映画を学んだそうです。
 経歴から察するに、この世代の人としては、かなり裕福な環境で育ったのではないでしょうか。実際のところは不明ですが、彼の作品には都市部の富裕層を描いたものが目立つので(『エドワード・ヤンの恋愛時代』『ヤンヤン 夏の想い出』など)、よけいにそういうイメージがあります。
 
 私がいちばん最初に観たヤン監督の作品は、『クーリンチェ少年殺人事件』。この映画の主人公の少年は、特別に裕福というわけではありません。しかし、彼が思いを寄せた末に殺してしまう同い年の少女は、彼よりも複雑かつ貧しい環境で生きていて、それゆえに大人びていました。
 「僕だけが君のこと全部知ってるよ、僕だけが君のこと助けてあげられる!」という少年の言葉に対し、少女はこう答えます。「私はこの世界と同じ。誰にも変えることは出来ない」。そのとき少年は、彼女がこれほどそばに居ながら自分とは全く別の空間で生きているような、そんな感覚に襲われたのかもしれません。
 
 エドワード・ヤン監督のご冥福をお祈りいたします。
プロフィール

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。

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