『夕雨子のころ』は映画化に向いていると思う。

 理想を言えば、マンガや小説を映画化するよりもやはりオリジナル脚本を使う方がいいとは思うのですが、諸事情によりそうも言っていられないのが現状なのでしょう。そこで、映画好きのひとりとして「これを映画化すればいいのでは?」という提案をしてみます。や、まあ、提案というより単なる妄想ですが‥‥。
 
 で、何を原作として考えているかと言うと、池上遼一のマンガ『夕雨子のころ』。小学館から出ている『耽美コミック傑作選 肌の記憶』という単行本に収録されている作品です。
 ちなみに池上遼一というと、『男組』や『クライング フリーマン』など、原作者が他に居て本人は作画だけ担当している長編が有名ですが、この『夕雨子のころ』は、本人がストーリーも作っている短編です。基本的なストーリーがとてもよく出来ている上に、視覚的要素が鮮烈かつ妖美な作品なので、映画化向きなんじゃないかと前々から思っていました。
 
 はっきり言ってベタで感傷的なメロドラマなのですが、その点でも映画化に適していると思います。なぜなら斬新でヒネリのあるマンガの場合、もうそれだけで作品として確立しているので無理に他のジャンルに移し替える必要がないけれど、ベタなマンガだとアレンジのしがいがあるし、他のジャンルに移し替えることによって何かがプラスされるかもしれないからです。

※以下、『夕雨子のころ』のストーリーを結末まで書いています

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甘いもんの甘さを控えて、どうするんぞ!

 今回のタイトルは、かつて「甘さ控えめ」を謳ったお菓子が世間に出回り始めた頃に、私の祖父が放ったツッコミの言葉です。何だか最近、この言葉をよく思い出すのです。あまりにも味の薄い饅頭などに遭遇したときはもちろん、食べ物と関係ない局面でも。
 
 私はブログを始めてから観た映画について全て書いているかというと、そうではありません。「観たけど書いてない映画」が既に何本かあります。基本的に「こびりつき映画」しか記録しないことにしているので、こういう現象が起こります。「こびりつき映画」の定義については、過去記事『ヴァイブレータ』の最初の段落をお読みください。
 
 さて私は2週間ほど前、ある新作の邦画を観ました。丁寧な作りの映画でそれなりに面白く観たのですが、何日か経つと、自分の中ですっかり印象が薄くなっているのです。よって「こびりつき映画」には分類できないので、作品自体は取り上げないことにしました。
 そしてなぜ印象が薄いのか、理由を考えてみました。恐らく、題材やストーリーがドロドロした性質のものなのに、演出や演技が妙にアッサリしていたからでしょう。濃さや激しさが要求される場面でも、サラッと口当たりよく、流れるように展開してしまうのです。
 
 いつの頃からか、邦画はそういう作品が多くなったように思います。当然これは作る側の問題だけでなく、観る側がそういうものを好むようになったという要因が大きいでしょう。
 この文章のタイトルとして何故ああいう祖父の言葉を使ったのか、説明しなくても分かっていただけると思うので、あえて書きません。

 ちなみに「ある新作の邦画」というのは、もうバレているような気がするので明かしますが、中田秀夫監督の『怪談』です。というわけで、この映画についてもう少し私の意見を書いておきます。
 恐怖や性愛の描写はもちろんですが、女たちが主人公の男に惚れていくときの描写も、もっと濃く激しくして欲しかったです。それこそ先日記事に書いた『テオレマ』のように、彼がそこに居るだけで女たちが異様な行動に出る‥‥というのは、どうでしょうか。
 リアリティが無い、と言われるかもしれませんが、そもそも『怪談』の題材である「呪い」や「祟り」自体がリアリティとは別次元のものなのですから、惚れていく姿は惨劇の予兆として強烈に打ち出してもいいのではないかと。

『河よりも長くゆるやかに』

1983~1985年 著者:吉田秋生

 たまにはマンガや小説についても書いていきたいと思います。
 今月の初めに作詞家の阿久悠さんが亡くなった頃、テレビで氏の追悼番組をチラチラ見ていると、北原ミレイさんの歌う姿が目に留まりました。曲は『ざんげの値打ちもない』。この歌を聴いて、久しぶりに『河よりも長くゆるやかに』を読み直したくなりました。
 というのも、このマンガは1話ごとにタイトルがついていて、その中に「愛というのじゃないけれど」(『ざんげ‥』のサビの部分の歌詞)というのがあるのです。また、単にタイトルに使われているだけではなく、作品中で主人公が何度もこの歌を口ずさみます。
 
 吉田秋生のマンガはいくつか映画化されていて、特に有名なのはやはり『櫻の園』でしょうか。原作も映画も女子高を舞台にした作品で、少女がたくさん登場します。
 で、この『河よりも‥』は男子校が舞台になっていて、非常に男くさ~いマンガです。かわいい美少年ではなく、食欲と性欲の塊のような男子が大量に登場するのです。そのせいかどうかは知りませんが、今のところ映画化されていません。
 
 基地の街・福生で、そこそこ名門の男子校に通う季邦(としくに)と深雪(みゆき)。姉と2人暮らしの季邦は寝る間も惜しんで数々のバイトをこなし、サラ金社長の息子である深雪は豪邸に住んでいます。この一見対照的な2人の友情と彼らを取り巻く人間模様が、時にシリアスに、時にコミカルに描かれます。
 
 吉田マンガには、子供時代に心に傷を負った人物がよく出てきます。『カリフォルニア物語』のヒースとイーヴ、『吉祥天女』の小夜子、『BANANA FISH』のアッシュ、『LOVERS KISS』の里伽子と朋章などなど。
 そしてこの作品も例外ではありません。季邦の家庭は、彼が中学生の時に父親が愛人と駆け落ちし、すぐに母親が亡くなり、姉は成績優秀だったのに大学進学をやめて水商売の世界に入りました。深雪の父親は悪徳高利貸しで大勢の人から恨まれており、そのせいで深雪は幼い頃に何度も誘拐されかけたり、殺されかけたりしました。また彼は、出生にまつわる悲しい秘密も抱えています。
 
 そんな彼らですが、自らのそうした事情を真摯に受け止めつつも、必要以上に感傷的になることはありません。自分の傷を前面に押し出したりはしません。他人を羨んだりもしません。精神的に、非常に大人なんですよね。

 そして吉田マンガのもう一つの特徴(だと私が勝手に思っていること)は、「立場の全く異なる対照的な人物が出てきて、その両方の心情が描かれる」ということです。例えば『カリフォルニア物語』では「優秀な兄と出来の悪い弟」、『ラヴァーズ・キス』では「性的に奔放な姉と処女の妹」が登場。で、普通はこの手の設定だと、映画『エデンの東』がそうであるように、弟や妹の方に寄り添う形で展開していく場合が多いのですが、吉田マンガでは、一見コンプレックスとは無縁な兄や姉の方もきちんと描かれ、彼らには彼らなりの苦悩があることが示されます。
  
 この『河よりも‥』の場合、まず経済面で対照的な季邦と深雪の2人ともがしっかりと描かれているわけですが、さらに高利貸しの息子である深雪と、その取り立てを苦に自殺した父親を持つ磯村という、加害者側と被害者側の人間が登場します。
 教育実習生の磯村は、深雪が例の高利貸しの息子であることを知って、彼に辛く当たります。理由を知った深雪は納得しつつも、磯村に向かって「おれはギャンブルに金つぎこんで首つったやつになんか同情しないぞォ!」と叫びます。「なにぃ」と怒る磯村、しかし彼は後になって深雪に意外な言葉を返してきます。これで2人が和解したわけではないし、彼らは永遠に異なる立場のまま生きていくわけですが、それでも少しばかりお互いの事情や気持ちに配慮し合った、その瞬間が描かれているところが私はとても好きです。

 なぜか最後になってしまいましたが、私、そもそも吉田秋生の絵が好きなんですよ。特にこの作品の頃は、人体に骨格・筋肉・脂肪がガッチリ感じられる絵で、それが内容(男子高校生の妙なエネルギーとか)と相まって、何とも言えず素晴らしいです。
 そういえばこの作品、ほとんどは『プチフラワー』という少女マンガ雑誌に連載されていたのですが、なぜか1話だけは『JUNE』というホモ耽美雑誌(?)に載っていました。何となく分かるような気もしますね。
 というわけで、『狂った舞踏会』→『テオレマ』→『河よりも長くゆるやかに』と、3回連続のゲイネタでした。

『テオレマ』

1968年 イタリア 監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ 出演:テレンス・スタンプ、マッシモ・ジロッティ、シルヴァーナ・マンガーノ、アンヌ・ヴィアゼムスキー

 前回取り上げた『狂った舞踏会』は、文中に書いたようにパゾリーニにオマージュを捧げた映画でした。ということで、今回はそのパゾリーニの作品を。
 タイトルの『テオレマ』とは「定理」のこと。「既に証明された命題」というような意味でしょうか。このタイトルと「ブルジョワ家庭の崩壊」という題材から、難解かつ観念的な香りが漂ってきますが、実際に観てみると、いろんな視点から語ることのできるなかなか面白い作品です。
 
 ミラノの郊外にある、ブルジョワ一家の住む豪邸。ある日そこへ謎の美青年がやって来て、そのまま居ついてしまいます。やがて父も母も、息子も娘も家政婦も、青年の妖しい魅力の虜になっていきます。そして青年が去ったあと、一家は崩壊の道をたどることに‥‥。

 この映画は、セリフが極端に多いシーンと極端に少ないシーンとで構成されています。大まかに分けると、登場人物が政治的な問答や哲学的な告白をするシーンではやたらとセリフが多く、それ以外のシーンでは殆どセリフがありません。全体的には、セリフの無いシーンの方が圧倒的に多いです。
 例えば、一家全員が青年の虜になっていくくだりは、まるで無言劇のようです。つまり青年は、「話術で相手の心をつかむ」などということはしません。ただそこに居るだけで、皆を惹きつけてしまいます。
 もっと具体的かつ下世話な言い方をすると、一家の誰もが青年を見ているだけで異様なほど欲情し、自分から進んで裸になったり、混乱のためか自殺未遂をやらかしたりします。そして結果的に、青年が全員と肉体関係を持ったことが暗示されます。

 さて前半が上記のような流れだと、後半は「家族同士が互いに嫉妬やら何やらで、ややこしいことになる」という展開も大いにあり得るはずなのに、この映画では全くそうはなりません。これは注目すべき点だと思います。なにしろ青年が去ったあと一家が崩壊していく過程も、「家族同士が傷つけ合う」というような関係性の破綻ではなく、それぞれが違った形で個別に迎える自己崩壊だけなのです。
 こうしてみるとこのブルジョワ一家は、もともと単なる個人の集合体であって、絆や結びつきなどというものは無かった‥‥ということなのかもしれません。

※ここから先の文章では、映画の結末について詳しく述べています。ネタバレOKな方だけお読みください。

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『狂った舞踏会』

1989年 日本 監督:佐藤寿保 脚本:夢野史郎 出演:伊藤猛、隈井士門、伊藤清美

 少し前に友人が「中古で安く手に入ったから」と、DVDをプレゼントしてくれました。それがこの作品です。ジャンルとしては、ホモ映画です。薔薇族映画、ゲイ・フィルムなど色んな言い方がありますね。最近は、(おそらく女性向けに)ボーイズラブという呼称を使う場合も多いようで。実際、DVDのレーベル名は「BOYS LOVE JAPAN」です。
 監督は、ゲイ・フィルム以外のいわゆる一般的なピンク映画でも活躍してきた佐藤寿保。さらに助監督は、先日取り上げた『坊さんが屁こいた』の監督、瀬々敬久。そんなわけでこの作品、マニアックな邦画好きの間ではかなり有名なようです。

 ボディビル雑誌の編集をしている男が、「肉体美博覧会」というイベントでモデルの青年と出会い、2人はすぐに愛し合うようになります。しかしやがて青年はサディスティックに男を攻撃しはじめ、耐えられなくなった男は、青年の片腕を切り落としてしまいます。月日が流れ出所した男は、ホルマリン漬けにした青年の片腕を抱きながら、彼の行方を探すのですが‥‥。
 
 イベント会場で、男は青年に一目惚れします。彼のどこに惚れたのかというと、顔や雰囲気ではありません。筋肉の美しさに惚れたのです。付き合い始めてからも、男は青年の過去や物の考え方などには一切興味が無いようです。とにかく体・体・体! 君の筋肉が好きなんだー! という感じ。クライマックス・シーンまで青年役の俳優にセリフが無いのも、男のそういう心理を表現するための演出なのでしょう。 
 まあ、ちょっとついていけないというか、理解しがたい部分もある恋愛です。しかしクライマックス・シーンで、青年の筋肉美に秘められた重い過去が明かされ、男は驚くべき行動に出ます(詳述は避けますが、非常に凄絶な自傷行為)。これを見てしまうと、「こういう愛の形もアリなのかな‥」と、妙に納得させられてしまいます。
 
 ちなみにこの映画、パゾリーニにオマージュを捧げた作品です。ご存知の方も多いと思いますが、彼はイタリアのゲイの映画監督。
 まず設定として、「男が青年の腕を切り落とした日にパゾリーニが死んだ」ということになっています(パゾリーニは1975年、53歳のときに17歳の少年に殺害されました)。また「男が、服役中に公開されたパゾリーニの遺作『ソドムの市』を観たがって、イタリアの友人にビデオを送ってもらう」というエピソードも登場。さらに、青年の筋肉美に秘められた過去は、パゾリーニの『テオレマ』と関係があります。

 そんなわけで、この映画はかなりシリアスな作品なのですが、実は私、あるシーンでツッコミを入れながら笑ってしまいました。あ、念のために書き添えておきますが、男同士のラブシーンを見て笑ったわけではないですよ。私は子供の頃から少女マンガなどで、ゲイを描いたシリアスな作品に接していますから、そういうシーンを可笑しいとは思わないし、照れ笑いも起きません。
 じゃあどこが、どういう風に笑いのツボにハマったのか。それを以下に記しておきます。

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『ラザロ』アンコール上映

 先月、映画『ラザロ─LAZARUS─』の記事で、最後の方に「都内での上映は8月3日まで」というようなことを書きましたが、新たに渋谷の劇場でアンコール上映が決定したので、その件に関して追記しておきました。

 更にせっかくなので、作品評も書き足しました。
 私は『ラザロ』を構成する3篇のうち、『蒼ざめたる馬』と『複製の廃墟』にはかなり批判的です。その理由について、(最初はやや遠慮して)ひとつの側面からしか書いていなかったので、別の側面からも説明しておきました。興味のある方はお読みください。
 

『坊さんが屁こいた』

1993年 日本 監督・脚本:瀬々敬久 出演:佐野和宏、下元史朗、小川真美

 前回の記事で瀬々敬久監督に少し触れたところ、ちょうど先日、瀬々作品の中で未見だった映画を観る機会がありました。『坊さんが屁こいた』という作品です。封切り時のタイトルは『好色エロ坊主/未亡人 初七日の悶え』。ピンク映画です。
 
 ちなみに主演の佐野和宏氏は私の好きな俳優さんで、共演の下元史朗氏も魅力的な名優。となると、観た後はきっとこの2人の姿が心に焼きついているんだろうな~と思っていたのですが、その予想は外れてしまいました。名優たちを喰ってしまったのは、浅草の風景です。
 瀬々監督の映画において風景が重要な位置を占めることは、前回の記事でチラリと触れたとおり。しかしこの作品では「重要な位置を占める」どころではなく、「風景が主役」と言ってもいいほど鮮烈でした。映画の内容として、「再開発」や「立ち退き」が題材になっていることも関係しているのでしょう。
 
 昔ながらの風情を残す街、浅草。しかしここにも再開発の波は押し寄せていました。古い住宅や店舗は次々と壊され、更地になっていきます。そしてこの再開発の裏に潜む陰謀をめぐって、美しき未亡人が苦境に陥ったとき、彼女を救うためエロ坊主が立ち上がります。

 さきほど「風景が主役」と書きましたが、この映画には、浅草のさまざまな風景が詰まっています。浅草寺・花やしき・フランス座などの名所から、小さな建物が軒を連ねる路地まで。また、主人公がお坊さんなので墓地なども登場します。
 しかも、それら制作当時(93年)に撮影されたカラー映像の合間に、大昔のモノクロの記録映像や写真が頻繁に挿入されています。例えば、戦前に「ハイカラ」な街として栄えた頃の浅草。そして、関東大震災で壊滅状態になった頃の浅草。ひとつの街の歴史と変遷が、鮮やかに浮かび上がってきます。
 人間が街を造る→震災による崩壊→復興へ→戦争による破壊→懸命な復興→再開発としての破壊。人間によって産み出された街という生き物が、人間と自然に翻弄され続ける。そんな感慨を強く抱きました。 

 ところでこの映画のオープニング・クレジットには「協力」として、花やしきなどいくつかの施設名や団体名が並んでいます。普通、成人映画は内容が内容だけに、許可が下りずゲリラ撮影になる場合が多いのですが、浅草の皆さんは許可してくださったということなのでしょうか。
 特に気になったのは、花やしきの観覧車の中でホームレスのおっさんと家出娘がセックスするシーン。これ、花やしき側は内容を知った上でOKしてくれたんでしょうか。もしそうだとしたら、寛大だなあ~。こういうシーンがあってこそ、独特の情緒(?)が漂ってくるのです。
プロフィール

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
twitter.com/saiboku_ya

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