戸川純

 「特にファンではないものの、昔から少しだけ気になっている役者さん」というのが何人か居て、戸川純もそのひとり。7月に出た彼女の自選ベスト盤『TOGAWA LEGEND』を人に借りて聴き、「♪隣りの印度人~」「♪樹液すする私は虫の女~」などのフレーズに懐かしさを感じつつ、ふとあることを思い出しました。
 
 昔、彼女が比較的テレビや雑誌によく出ていた頃、トーク番組か何かで、「『智恵子抄』の智恵子みたいな役をやりたい」と言っていたような‥‥。細部に間違いはあるかもしれませんが、とにかく正統派のシリアスなヒロインを演じたい、という意味の発言をしていた記憶があります。
 
 彼女は演劇の世界でも活躍しているようなので、もしかしたら既に舞台ではそういう役をやったのかもしれませんが、映画では多分まだですよね。私は是非観てみたいです。不思議ちゃん的なキャラクターで有名になった人ですが、普通にシリアスな映画に主演しても似合うんじゃないでしょうか。奇矯さの中に独特の暗さを秘めていて、しかもそれは「スクリーンに映える暗さ」であるような気がするので。

 ところで戸川純は一時期、『釣りバカ日誌』シリーズにレギュラー出演していましたよね。『TOGAWA LEGEND』の彼女自身によるライナーノートには、『鈴木建設社歌』の解説として、その裏話が書いてあります。
 なんでも山田洋次監督の『ダウンタウン・ヒーローズ』に小さな役で出演したとき、山田監督に「きみは何もしなくても、立ってるだけでおかしいね」と気に入られ、彼が脚本を担当している『釣りバカ』のレギュラーメンバーに抜擢されたそうです。
 
 つまり山田監督は彼女をコメディエンヌとして評価している、ということなのでしょう。ううむ。私としては、山田監督がシリアスな時代劇を撮るときにこそ、彼女をキャスティングするべきなんじゃないかと思うのですが。
 まあ彼ほどのベテランでなくても、正統派のカッチリしたドラマを撮る監督と彼女が組めば、いいものができそうな予感がします。最近はあまり体調が良くないらしいので、元気になったら、そういう映画に出てほしいなあ。

ツボでビリビリ

 突然ですが。私は10代のちょうど背が伸びる時期にちょっとした脊椎の病気にかかったため、体が微妙に歪んでいます。具体的に言うと、左右の肩の高さや腰の高さなどが、少し違う。そして左右の筋肉の付き方も、少し違う。
 
 そのせいだと思うのですが、ある程度歳をとってから、やたらと「体の左側だけ調子が悪い」という状態に陥るようになりました。例えば首の左側だけ痛いとか、腰の左側だけ痛いとか、あるいは左脚だけに湿疹がたくさんできるとか。ちなみにここ数日は、首の左側と腰の左側が痛いです。これらはすべて、ウソのような本当の話、悲しいくらい本当の話(昔こういう歌がありましたねえ)。

 まあそんなわけで、たまに鍼灸院に行き、普段は自分でツボ指圧のようなことをしている身として、今回は私のオススメのツボをご紹介しましょう。
 はい、まず床にお尻をつけて座り、足の内側のくるぶし(骨がボコッと出っ張っているところ)を見てください。外側ではなく、内側ですよー。で、その少し下、といっても真下ではなくややアキレス腱に近いあたりに手の親指を当て、それ以外の指を足の外側に当ててください。足を斜め上からガシッと掴むような感じ。そして親指を当てたところを強めに指圧してみてください。このとき、ただ押すのではなく、グリッ! グリッ! と強く揉むこと。

 どうですか? 足の裏や指先までビリビリッと電気が走ったようになるでしょ? ならない場合は、少しずつ位置をずらしながら、とにかくその周囲を全部試してみてください。それでも何も感じないという方は、足腰の疲れが無い方です、たぶん。逆に、ものすごくビリビリ来るぜー! という方は、足腰が疲れているか腰痛持ちでしょう。
 私の場合は当然、ビリビリッと来ます。そして右足よりも左足の方が、ビリビリ感が強い。ちなみに鍼灸院に行くと先生が、毎回必ずと言っていいほどここにハリを打ってくださって、そうすると指圧の時よりも遥かに凄い電気が走ります。思わず「ヒョエッ!」とか「ギャワッ!」とか叫んでしまうくらい。

 「で? 効果の方はどうなのヨ?」と訊かれると‥‥正直言って、「劇的に効く」というわけではありません。や、このツボに限らず、東洋医学というのは全てそういうものですよ~。長く続けているうちに、少しずつ効果が出ます。あるいは、悪化を防げます。
 「やらないよりは、やったほうがいいだろう」というわけで、私はよくお風呂で湯船に浸かっているときなどに、指圧をしています。個人的には効果云々よりも、とにかくこのビリビリ感が快感なので。
 さらに時々、ここにサロンパスを貼ったりもするのですが、刺激の種類が違いすぎるので、あまり体には良くないのかもしれません(ただし気持ちはよろしいです)。
 また、ヘルニアなど特定の病気によって腰痛になっている方は、ツボをいじるよりもまず、その病気自体の治療を受けてくださいね。

『誘うOL』

劇場公開時のタイトルは『昼下がり、濡れるOL』
2000年 日本 監督:渡邊元嗣 脚本:波路遥 出演:西藤尚、荒井まどか、林由美香、ささきまこと、十日市秀悦、山信

 5月の「OP映画祭り」で初めてご本人を拝見してビックリした渡邊元嗣監督の、旧作中古ビデオが手に入ったので、さっそく鑑賞。ジャンルとしてはピンク映画ですが、内容的には「エロ+メルヘン+ファンタジー+コメディ」といったところ。エロにメルヘンがくっ付いているあたり、さすが渡邊監督です。しかもこのメルヘンチックぶりは、かなり凄い。
 
 まず劇中のセリフにですね、「白馬の騎士」という言葉が何度も何度も何度も出てくるんですよ。ヒロインは白馬の騎士をずっと待っている、という設定なので。ちなみに彼女、大昔の女学生ではありません。現代のOLです。
 
 さらに衣装。昔から、メルヘンチックな女子が好むものとして「犬や猫などかわいい動物の模様が入った衣類」というのがありますが、その非常に強烈な例を、この映画で観ることができます。それは、ヒロインが自宅で食事するシーンで着用しているエプロン。
 このエプロン、胸あての部分がまるごと「布で作った猫の顔」になっているのです。まるごと、ですよ。生身の猫の顔より、はるかにデカいです。画面を観ていて、ヒロインの顔よりも布製の猫顔の方についつい目が行ってしまいました。メルヘンも度を超すと迫力になるんだなあ、と妙なところで感心。

 さてそのエプロンからもわかるように、ヒロインの芳美(西藤尚)は大の猫好き。というか、1年前に死んだペットの黒猫を、今でも心の支えにして生きています。
 あるとき上司の犬飼(林由美香)が芳美の仕事上のアイデアを盗み、そのうえ芳美と付き合い始めたばかりの同僚・寛(ささきまこと)を誘惑し、寝取ってしまいます。芳美は黒猫の遺影に向かって、辛い心の内を吐露。すると次の日、黒いミニドレスを着たキトンという名の不思議な女性(荒井まどか)が突然、会社に出現。キトンは芳美の仕事と恋がうまくいくよう、あの手この手で応援してくれます。はたしてキトンは何者なのか? 
 
 これ、観てない方でもだいたい想像つきますよね。キトンの正体も、芳美の仕事と恋がどうなるかも。つまりこの映画、「先が読めないからハラハラして面白い」というタイプではなく、「先が読めるからこそ安心してのんびり楽しめる」というタイプの作品なのです。いわば、明るく楽しいおとぎ話。だから細かいことにこだわるのは野暮かもしれないのですが、後半のストーリーで、ひとつ気になったことがあります。

※以下の文章では、映画の結末に触れています。

 芳美が徹夜で難しい仕事に取り組んでいるとき、キトンが寛のアパートを訪ねて協力を依頼します。「芳美に自信を与えてあげて!」と。しかし寛は芳美と気まずくなっているうえ、犬飼にもアッサリ捨てられたので、「自分に自信が無いのに、人に自信を与えることなんか出来ないよ!」と拒否。するとキトンは、ある方法で寛に自信を与えます。その結果、寛と芳美は力を合わせて仕事を成し遂げ、2人はめでたくラブラブに。そう、芳美の「白馬の騎士」は寛だったのです。
 
 という展開なのですが、このキトンが寛に自信を与えた「ある方法」というのがですね。要するに、「キトンが魔法で寛を誘惑してセックスになだれ込み、寛がキトンをヒーヒー言わせる」ということだったわけで。
 なんというか、「キトンをヒーヒー言わせた結果として芳美とラブラブに」というのが、今ひとつ納得できんのですよ、私は。結局、寛って犬飼ともキトンとも芳美ともセックスするわけで、「おいおい、白馬の騎士って誰とでもヤるんかい!」とツッコミたくなります。
 もちろんキトンとの件では、「魔法にかけられてポーっとなってしまった」という設定があるわけですが、それならもうひと捻りして、例えば「魔法によって目の前のキトンが芳美に見えたので、張り切ってヤッた」という風な流れにしてほしかったです。そうゆうの、どうですか? (って、誰に訊いてるんだか‥‥。)

『映画時代 創刊号』

2008年9月発行 編集・企画・制作:活檄プロダクション(佐藤洋笑、港岳彦)
公式ブログ→http://eiga-jidai.seesaa.net/
 
 以前、創刊準備号の読後感想記事を書きましたが、今月発行された創刊号についても少し書いておこうと思います。今号の特集タイトルは「テロルの季節」。前号と同じく、特集テーマというよりも巻頭インタビュー(井土紀州)に興味があって読みました。
 
 というのも私は、井土監督の『ラザロ-LAZARUS-』3部作を公開時に観て、3作のうち、ヒロインがテロリストになってからの2作(『蒼ざめたる馬』と『複製の廃墟』)に物足りなさを感じたからです。
 簡単に言うと、ヒロインの敵にあたる登場人物(富裕層や権力者)の中に、手ごわい人物が居ない。皆、アホだったりお坊ちゃんだったり単純な悪役キャラだったり‥‥。これではスリルや緊張感に欠けるし、そもそも富裕層や権力者の中にはしたたかな人物もかなり居るはずなので(そうでなければ階級や権力は維持できない)、その種の人物が登場しないのは、格差社会やテロを描いた映画としてどうなの? と思ったわけです。(詳しくは公開時に書いた記事をどうぞ。)

 今回のインタビューの中で、井土監督はこのように語っています。
 ≪(前略)支配階級が自分たちに不満の矛先を向けさせないように腐心してきたのが、まさにこの二十年、三十年だったと思うんです。誰かを狙ってテロを仕掛けるということがあるとすれば、その「誰か」を見えなくしてしまう。ドラマでもそうですよ。昔は公害があれば公害を生んだ企業というものがいた。『ゴジラVSへドラ』(’71)ではヘドロが映された。見えやすい形での悪があり、青少年たちの心を奮い立たせた。でもそれを巧みに目くらましして敵を拡散し、「そんなことを考えるお前が一番悪い」というメンタリティを形成していった。(後略)≫
 
 つまり井土監督は、「支配者側は巧みだ」という認識を強く持っていると。ならばその認識を、『ラザロ』でも具体的に表現してほしかったです。要するに、支配者側の巧みさを体現するような人物を登場させてほしかった。そのほうが映画としての面白みも増したし、監督の持っている危機感のようなものが、より観客に伝わったんじゃないでしょうか。今後の作品に期待します。

 ところで、この創刊号自体について。まあ、これは既に色んな人が指摘しているとは思いますが、創刊準備号で始まった「連載 マチバ<町場>のカツドウ屋列伝」が今号に載ってないのは、休載なのか何なのか(事情説明が無いような‥‥)。ピンク映画人へのロング・インタビュー連載ということで、他ではあまり読めない企画だし、できれば続けてほしいです。

『ポプラの秋』

1997年発行(新潮文庫書きおろし作品) 著者:湯本香樹実

 湯本香樹実といえば、相米監督が映画化した小説『夏の庭』で有名ですが、私が彼女に注目するようになったキッカケは、『ボーイズ・イン・ザ・シネマ』(キネマ旬報社)というエッセイ集。これに掲載されている、映画『スタンド・バイ・ミー』(というよりも原作であるスティーヴン・キングの『The Body』)についての文章が、非常に鮮烈だったのです。
 
 乱暴に要約すると、「子どものころ心に引っかかったことにきちんと対峙せず、放置したまま記憶の底に眠らせていると、大人になってからその記憶が凶器となり本人をダメにしてしまう」というような内容。
 そして彼女は、そのダメになった状態を「死ぬまで腐ったお子様のまま」と表現しています。腐ったお子様! 「うわ、きっつい言い方するなあ」と思うと同時に、自分にもそういう傾向があることに気付き、彼女の洞察力と表現力にすっかり敬服してしまいました。

 この『ポプラの秋』も、ある意味「子ども時代の記憶」に関する作品です。恋愛や仕事で挫折し母親ともうまくいっていない25歳の女性・千秋が、幼い頃の知人である老婆の死をきっかけに、当時を回想する‥‥という構成。
 千秋は小学校1年のとき父を亡くし、それまで住んでいた家を出て、庭にポプラの木があるアパート「ポプラ荘」で母と2人暮らしを始めます。大家のお婆さんは一風変わっていて、自分は「あの世」に居る人に手紙を届けることができる、と言い張るので、千秋は父への手紙を何通もお婆さんに預け、母も1通だけ預けます。そして。

※以下、かなりネタばれ気味です。

 終盤で、現在の(25歳の)千秋は初めて、ある事実を知ります。長いあいだ彼女には知らされていなかった、父に関する事実。
 詳述は避けますが、それはかなり衝撃的な事実です。しかし千秋は動揺も落胆もせず、むしろ爽やかで前向きな気持ちになっていきます。なぜなら、その事実は衝撃的ではあるけれど、長年のわだかまりを払拭してくれるものだったから。母に対するわだかまりを。
 千秋から見ると、母には昔から不可解な言動が多く、それゆえにあまりうまく接することができなかったわけですが、事実を知ることによって、初めて母を理解できるようになるのです。しかも、母に対する深い感謝の気持ちが湧いてきます。
 
 そしてこの小説は、全編を通じて主人公の視点で書かれていることもあって、読者が主人公に共感しやすいので、最後に読者も千秋と同じような気持ちになれる‥‥はずなのですが、私は今ひとつ、そうなれませんでした。むしろ、千秋がすっかり前向きになっていることに対して、少々違和感を抱いてしまったのです。
 
 というのも、終盤で明かされる事実は、たしかに母への感謝の気持ちをもたらすものではあるものの、それと同時に、父への複雑な感情をもたらすものだ(と私は思う)からです。
 父の選択と、それに際して取った行動(ある人へ、ある物を残した)。どちらも妻や子供にとってはかなり残酷なことで、前者は何か事情があったのだろうから仕方ないとしても、私は後者が気になります。妻子にはそれを残していないわけだし。千秋はなぜ、この事実に動揺しないのだろう?
 
 もちろん「今となっては些細なことだから、動揺などしないのだ」という解釈は可能でしょう。しかし彼女は長い間、父に対して美しいイメージだけを抱いて生きてきたのです。実際、千秋の記憶のなかの父の姿が何度か描写されていて、それらはいずれも穏やかで優しくて包容力のある姿ばかり。そういう姿だけを20年近くも心に抱いていたところに、いきなり父の、ある種残酷な選択や行動を知って、少しも動揺しないのでしょうか。

 私はこの小説をかなり好きではあるのですが、終盤での、事実を知ってからの主人公の完璧な爽やかさには、やはり疑問を感じてしまいます。彼女はまず父の選択を「それでいいじゃないか」と肯定し、次に母に感謝し、やがて自分の今後について前向きな計画を立て‥‥と、一点の曇りも無いのです。何だか屈折が無さすぎるというか、父に対しても寛大すぎるというか。
 しかし今、ふと気付きました。こういう読後感を抱いてしまう(主人公の寛大さに共感できない)最大の理由は、私自身がまだ「腐ったお子様」だから、なのかもしれません。
プロフィール

サイボク

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
twitter.com/saiboku_ya

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