脳ミソがつながってるわけじゃない。

 先日、ある脚本家の方(♂)のブログを読んでいたら、「自分の作品について周囲から“女が描けていない”と批評された」というようなことが書いてありました。そしてご本人は、その批評を謙虚に受け入れてらっしゃるようでした。
 「女を描く」ということ。昔から映画を作る側の方々は、かなり意識しているみたいですね。彼らのエッセイやインタビュー記事などに、よくその種の言葉が登場します。ちなみに「男を描く」という類の言葉は、ほとんど見たことがありません。まあ作る側に男性が多いので、こういう現象が発生するのでしょう。ところで観客である私(♀)は、この「女を描く」という言葉に、ちょっと違和感があります。

 以前、ある監督兼脚本家の方(♂)がお書きになった未映画化作品の詳細なプロットを、読ませていただく機会がありました。いわゆる業界人ではない私にとっては非常に貴重な機会なので、当然いそいそと拝読。面白い内容でした。ただ少々、気になる点もありました。
 それは、似たような女性が何人も出てくる、ということ。女性の登場人物が多いにもかかわらず、人物像が限定されているというか。「いろいろな女性が出ている」という感じがしないのです。
 そうなった理由は、何となく分かりました。それを書いた方と、世間話をさせていただいた時に。彼は会話の中で、例えば「女は強い」というような、「女とはこういうものだ」式の断定的な発言を何度もなさったのです。
 
 私はそれを聞きながら、思いました。「別に私ら女は全員、脳ミソがつながってるわけじゃないんですけど‥‥」(同じ感じ方や考え方をするわけではない、という意味)。 
 もちろん脳ミソだけでなく、他の部分もつながってないです。それぞれ個別に生まれ、個別に生きているので。たしかに肉体的な問題だけとっても、女性特有の現象というのは確実に存在しますが、その表れ方にはかなりの個人差があります。ましてや性格・考え方となると、「本当に同じ人類なのか?!」と思うほど激しく違っている場合もアリ。

 一方的なお願いを書いておきます。映画を作る際に、あまり「女を描く」とか意識しないでいただきたい。例えば作品の中にA・B・Cという3人の女が出てくるとしたら、「AとBとCをそれぞれきちんと描く」でいいんじゃないでしょうか。「女を描く」よりも「女を描き分ける」ことを重視していただけると、ありがたいです。

『トウキョウソナタ』

2008年 日本、オランダ、香港  監督・脚本:黒沢清  脚本:マックス・マニックス、田中幸子  出演:香川照之、小泉今日子、小柳友、井之脇海、津田寛治、児嶋一哉、井川遥、役所広司   
現在上映中  公式サイト→http://tokyosonata.com/index.html

 1週間ほど前に劇場で観た『トウキョウソナタ』が予想以上に面白かったので、それについて書いておきます。

 黒沢清監督の演出にはいろいろ特徴がありますが、そのひとつは「人と人との間に漂う居心地悪い雰囲気を描写するのが妙に上手い」ということではないかと。例えば『アカルイミライ』(2003)では、その上手さが発揮されているシーンが多すぎて、観ていてやや苦痛を感じました。
 今回リストラや家庭不和が題材ということで、やはり見事なまでに居心地悪い雰囲気が延々と続くのかと危惧していたのですが、実際に観てみると、それは必要最低限に抑えられていて、むしろ笑える描写が目立ちました。もちろん「笑える」といっても、かなり黒い笑いですが。

 リストラされた竜平(香川照之)は妻や子供にそのことを隠したまま、同じ境遇の旧友・黒須(津田寛治)とともに、職探しや暇つぶしの日々を送っています。次男の健二(井之脇海)は両親に反対されたため内緒でピアノを習い、長男の貴(小柳友)は家族への相談なしにアメリカ軍入隊への準備を進め、やがて本当に入隊してしまいます。竜平と健二の秘密もバレて家庭が混乱するなか、妻の恵(小泉今日子)が家に1人でいるとき強盗(役所広司)が押し入ってきて‥‥。

 黒い笑いを主に担うのは、黒須(ダジャレではないです)。リストラされたことを妻子に隠すため、携帯電話の呼び出し音が頻繁に鳴るよう自分でセットしたり、竜平を会社の部下として家に招待したり。とにかくやることがいちいち過剰で可笑しいのですが、その可笑しさは狂気と紙一重。笑えるけれど実は、怖く哀しいキャラクターなのです。
 そして演じる津田寛治。彼のことは『人が人を愛することのどうしようもなさ』の時も褒めましたが、今回もイイです。携帯を操る手つきの空虚な華麗さなど、とても心に残ります。他の俳優陣も皆ハマリ役で好演。

※以下の文章では作品の結末に触れています。

 ところでこの映画は、ハッピーエンドなのかそうでないのか、人によって解釈が分かれる終わり方になっていると思います。おそらく根本的に、家族や人間関係というものを明るいイメージで捉えている人は「ハッピーエンドだ」と感じ、それ以外の人は「ハッピーエンドとは言えない」と感じるのではないでしょうか。ちなみに私は後者です。
 
 ただ作品自体は、やや「ハッピーエンドではない」方向に寄っているような気もします。いくつか理由はありますが、特に私が気になったのは、息子たちの関係性の描き方。夫婦や親子の会話シーンはあるのに、息子同士が言葉を交わすシーンは、最後まで無いのです。目で合図したり、スキンシップをしたりする描写も無かったと思います。作り手が意図的にそうしたのか、たまたまそうなっただけなのか分かりませんが、結果として、どこか冷たい後味が醸し出されています。

ヒロ子ふたたび

 最近、書きかけの記事が溜まっています。まず『殺しのドレス』の無修正バージョンをDVDで観て書き始めたものの、途中で「どうせなら『サイコ』もDVDで観直してみよう」と思いつき、しかしそれをする時間も気力も足りず放置中。また、ある本の感想を書き始めたものの、読みが浅いような気がして再読を決め、そこで作業が止まっています。さらに緒形拳が亡くなったので追悼文を書こうかと考えつつも、「そのうち特集上映があるだろうから、それを観てから書いた方がいいのでは?」などと‥‥。まあ、やたらとこういうパターンが続いておるわけです。

 そんな停滞期の折、このブログを読んでくださっている方からメールをいただきました。そのメールには、いくつかの記事に対する感想コメントが。例えば『ヒロ子とヒロシ』の批評記事に対して、「私がうっすら感じていた事そのままだったので、嬉しくなりました(以下略)」と書いてくださっています。ありがたいです。
 『ヒロ子~』の記事をアップしたとき、色々な方のご意見を聞いてみたかったので、あえて最後に「ご意見募集」風な文章を添えておきました。しかし残念ながらこれまで反応が無く、「もしかして的外れな批評なのかなあ?」と、少し心配していたのです。だから今回、共感のコメントをいただいて何だかホッとしました。
 
 私があの記事で問題点として指摘した「イイダくんの件」は、些細なことなのかもしれません。実際、私自身も観ている最中には気づきませんでした。しかし観ていてどうもノレないというか、いちばん高揚するはずのクライマックス・シーンで妙に冷ややかな気持ちになってしまったので、後日その理由を考えているうちに気がついたのです。
 つまり、作品の中でさほど目立つことではないんですよ、でも大事なことなんじゃないかと。料理でいえば地味な調味料みたいなもので、素材やソースみたいに前面には出てこないけど微妙に味を左右する、というような。あのイイダくんはヒロインの人生において重要な人物なのに、彼の気持ちの流れが作品全体を通してきちんとつながっていない。私はそう思います。

 停滞期にメールをいただいて、ちょっと救われました。最近ブログに対して、どうも今ひとつ意欲が湧かないのです。理由は、やはり、まあ、その、反応が少ないからです。「反応したくなるような文章ではない」と言われればそれまでですが。
プロフィール

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
twitter.com/saiboku_ya

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