『ディア・ドクター』

2009年 日本 監督・脚本:西川美和 出演:笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、八千草薫、井川遥、松重豊、岩松了、笹野高史、香川照之
全国各地で、上映中あるいは上映予定あり  公式サイト→http://www.deardoctor.jp/

 10日ほど前に、シネカノン有楽町1丁目にて鑑賞。いい映画なので、オススメする意味でブログに書こうと思いつつも、なかなか書けませんでした。なぜなのか。しばらく日が経って、何となく分かってきました。
 この映画、アクやムダが無さすぎるというか、クールにまとまりすぎていて、私にとってはやや吸引力が弱い。多少出来が悪くても、ある種の過剰さが感じられる映画の方が、個人的には惹かれるので。

※以下、ネタばれ気味です。 
 
 伊野(笑福亭鶴瓶)は、過疎の村で献身的に働く医者。村人たちから慕われ、尊敬されている。しかし突然、彼が失踪。2人組の刑事・波多野(松重豊)と岡安(岩松了)は、伊野の身辺調査を始めた。すると意外な事実が明らかに。
 この「意外な事実」は、どんでん返しとして作品の終盤に登場するわけではなく、序盤から実にアッサリと描かれます。また予告編などでも、既にかなり明かされていた模様。だから、(ネタバレになるかもしれませんが)ハッキリ書かせてもらいます。主人公の伊野は、医師免許を持っていないニセ医者だった。
  
 非常に印象深いシーンがあります。喫茶店で波多野と岡安が、伊野の診療所に薬を卸していた営業マンの斎門(香川照之)と話すシーン。
 伊野がニセ医者ながらも過疎の村で老人たちに尽くしていた理由について、波多野が嘲笑的に「やっぱり“愛”なんですかねえ?」。すると突然、斎門が椅子ごと後ろにガタっと転倒。思わず手を差し伸べる波多野。すると斎門、「そういうことじゃないんですか? 刑事さんは別に僕のこと愛してなんかいないでしょ? それでも、とっさにそうしたでしょ?」(細部が違っているかもしれませんが、だいたいこんな意味の台詞)。
 
 「あ~、なるほど!」と思いました。映画の中だけでなく現実にも、他人に尽くす人を嘲笑したがる輩というのはよく居るもので、おそらく私自身も時々そういう嘲笑をしているのだと思いますが、そんな「嘲笑屋」たちの浅い笑顔を凍りつかせる見事なリアクション。
 そしてこのシーンは、この映画の核心に迫る部分でもあります。というのも、伊野がなぜ過疎の村でニセ医者をやっていたのか、その理由というか心境は、結局ハッキリとは描かれないからです。つまり、観客が自分で想像するしかない。その想像の取っ掛かりとなるのが、上記のシーンなのでしょう。
 
 という具合に、色んな意味で優れたシーンではあるのですが、その一方で、演技や演出が淡々とし過ぎているような気もするんですよね。

 香川氏も松重氏も岩松氏も、実に適切な演技をしていて、それが引きの画で冷静に撮られている。このシーンに限らず全体的に、役者さんの芝居は達者なうえに抑制が効いているし、演出も押しつけがましくなく落ち着いているし、常に監督の聡明さが感じられます。
 これはもちろん長所ではあるのですが、しかし個人的には、もう少しアホでもいいのでは? と思ったりもします。つまり、どこかヤリ過ぎな感じ、クドい感じもあったほうが、面白んじゃないかと。面白いとは、人の心に入り込む、ということでもあるわけだし。

 ところで私、西川美和監督の長編映画はすべて観ています。まず1作目の『蛇イチゴ』で、若いのに大した人やなーと感心し、次の『ゆれる』は世評と違って今ひとつ感心しなかったものの、今回の『ディア・ドクター』は面白そうなので観に行った次第。
 しかし今まで書いてきたように、「いい映画」とは思っても、あまり「面白い」とは思えず。実は『蛇イチゴ』の時も似たような感触でした。やはりもう少し過剰であってほしいというか。

 ただ、西川監督の持つ冷静さや押しつけがましくない演出は、ある種の題材に対しては非常に有効であるような気もします。例えば差別の問題などを彼女が映画で取り上げた場合、感情的に結論や主張を押し出すのではなく、冷静に多面的な描き方をしてくれるんじゃないかと。
 彼女は今回の作品で、主人公のニセ医者を肯定も否定もしていません。彼が村のために懸命に働く姿を描く一方で、彼が無責任な行動に出たことや、村から多額の報酬を受け取っていたことも描いています。彼は善でもなく悪でもない、と。たぶん西川監督は、善悪を判定するよりも他に大事なことがある、と思っているのでしょう。そんな彼女に、人々が善悪の基準だけで捉えがちな問題を描いてみてほしいです。

『恋愛家族 義母と義姉の秘密』

2005年 日本 監督:国沢☆実 脚本:小松公典 出演:南けい子、川口篤、牧村耕次、若瀬千夏、藤原麗子、前田万吉、坂本裕一郎  (DVDレンタルあり)
 
 先月下旬、中古DVDが手に入ったので鑑賞。2話オムニバス形式のエロス系OVです。それぞれのタイトルは、第1話『義母と息子・真実の愛』、第2話『義姉と弟・遅すぎた出逢い』。タイトルから分かる通り、どちらもいわゆる「禁断の愛」モノ。
 小松さんが脚本を担当された作品だし、できれば色々と詳しく書きたいのですが、前の記事で述べたように最近やや体調不良なので、あまり長くは書けません。そこで、ある1点についてだけ記しておきます。

※以下の文章では第1話の結末に触れています。

 とにかく第1話のラストシーンにおける息子の台詞が、妙に印象に残っています。まあ台詞といっても、「母さん!」という一言だけなんですが。そこに至るまでの流れを考えると‥‥。
 
 予備校生の俊夫は、父の後妻としてやってきた奈津子に最初は反発したものの、あることをきっかけに彼女と打ち解け、しだいに2人は親密に。ついには肉体関係を持ちます。そしてラストシーン。俊夫が路上を走りながら、明るい声で「母さん!」と叫ぶと、前方を歩いていた奈津子が振り返り、微笑む。
 
 これって結局、2人の間に性的な関係があっても、俊夫にとって奈津子はあくまでも「母さん」である‥‥ということなんですかね。や、むしろ関係を持ったことによって、「母さん」度が高まったように見えます。彼は行為の最中にも、彼女に向かって愛おしそうに「母さん‥」と言っているし。
 まあ俊夫には、実母に愛されずに育ったという過去があり、その辛さを語るシーンもあるので、彼が母親という存在に過剰にこだわるのは、何となく分かるような気もします。しかし。彼のこの「母」に対するこだわりっぷりについて考えているうちに、ある疑問が浮かびました。

 それはですね。もし奈津子が俊夫を、「息子」ではなく完全に「ひとりの男」として愛したくなったら、どうなるのか? ということ。
 俊夫は奈津子自身に惹かれているだけでなく、彼女が「義母(母親)である」という付加価値の部分にも大いに惹かれているわけですが、奈津子の方は、俊夫が「息子である」ということに特別な価値やこだわりを感じているわけではないでしょう。だから、彼女はそう遠くない未来に、自分たちの母子関係をやめたくなるかもしれない。つまり、「母さん」ではなく「ひとりの女」として愛されたくなるかもしれない。そのとき、俊夫はどんな反応を見せるのか。
 
 上記のような展開で、この作品の続きを観てみたいですね。直接の続編というよりも、内容的にこの作品を膨らませたような長編を。

あ~痒い、痛い。

 前に何度か書いた湿疹。その後、微妙な経過をたどっています。まず近所の病院での治療と自己流治療の両方とも効果が無く、少し遠くの病院に通い始めたのが5月の上旬。その時、「やや重症の貨幣状湿疹」と診断されました。
 コインのように丸くて大きい湿疹なので、貨幣状湿疹。この病名、近所の病院では全く言われなかったし、初めて聞くものだったのですが、ネットで検索するとたくさん情報が出てきました。記述も画像も、たしかに私の症状と似ている‥‥(少々グロめの画像がいきなり出てくる可能性があるので、そういうのが苦手な方は検索しないでくださいねー)。
 
 で、治療を続けていくうちに少しずつ良くなってはきたものの、困ったことに、今度は別種の湿疹や蕁麻疹などがあちこちに出るようになってしまいました。何故こうなるかというと、貨幣状湿疹の治療に使っている複数の薬の副作用で体の免疫機能が低下しているから、だそうです。
 あと基本的に、疲れやストレスがたまっている人はこういう経過になりやすいのだとか。病院でもらった小冊子にも、「日頃から体だけでなく精神的にも健康な生活を心がけましょう」みたいなことが書いてあります。
 
 は~~。それ、すごく難しい。要するに、抱えている問題を解決してストレスを減らせばいいんでしょうけど。私の場合、大きく分けて2つの問題を抱えており、それらを仮にA・Bとすると、Aはしばらくは絶対に解決不可能。で、Bを解決しようとすると、Aが(ほぼ確実に)悪化するので、正直、どうしたらええか分からん。
 とりあえずは問題解決ではなく、ストレス緩和に努めるしかないんでしょーか。まあそれはおいおい考えるとして、とにかく今は痒い、痛い。あと薬の種類が多すぎて、飲み分け・塗り分けが面倒くさいっす。

『レスラー』

2008年 アメリカ・フランス 監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:ロバート・シーゲル 出演:ミッキー・ローク、マリサ・トメイ、エヴァン・レイチェル・ウッド
上映中  公式サイト→http://www.wrestler.jp/

 数日前に、日比谷のTOHOシネマズ シャンテにて鑑賞。今回の文章は最初のうちから作品の終盤に触れているので、ネタばれOKの方のみ、お読みください。

 この映画のストーリーを短く要約すると、以下のようになります。「落ち目の中年レスラーが心臓発作をキッカケに引退するが、それを撤回して再びリングに上がる」。
 しかし、これでは不充分。不正確ではないけれど、大事な部分が抜けているのです。それは、動機。主人公はなぜ再びリングに上がったのか。その内実によって、映画全体の印象はかなり変わってくるはず。
 
 例えば、「死を覚悟してでも自らの限界に挑戦したくて」といったチャレンジ精神のようなものが動機であれば、この映画はもう少し明るいものになっていたでしょう。まあ、そういうチャレンジ精神も皆無とは言い切れないのですが、やはりそれよりも、「他に居場所が無いから」という動機がいちばん強いように感じられるのです。そしてその点が、興味深い。

 主人公のランディ(ミッキー・ローク)は、既に色々なものを失っています。かつての栄光、金、名声、頑丈な肉体。そして、長く続けてきたレスラーという仕事も失うことに。
 さらに、思いを寄せる女性・キャシディ(マリサ・トメイ)と親密になりかけたものの、交際を断られ。また、疎遠だった娘のステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)と和解したものの、自分のだらしなさによって結局は絶縁状態に。ついには、勤務先のスーパーで店長や客の態度にブチ切れ、せっかく就いた新しい仕事も辞めてしまいます。
 
 とりわけ娘との関係において、彼は相当のダメ人間。いくらキャシディにつれなくされてショックだったとはいえ、行きずりのどうでもいいようなネエチャン(やたらデカい声で悶える)と一夜を共にし、大事な娘との約束をすっぽかしてしまうのですから。
 
 ただランディは、すべての人間関係に失敗しているわけではありません。というのも彼、レスラー仲間との関係はきわめて良好。同世代からも若手からも、信頼されているのです。 
 おそらく仲間に対しては、裏切ったり(精神的に)傷つけたりするようなことを、一切していないのでしょう。これって、自分と同じ世界の人とはうまく付き合えるけれどそれ以外の人とはダメ、ということなのかも。いずれにせよ、彼は根本的にリングの中でしかうまく生きられない。

 ラスト近く、再びリングに上がる直前のランディが、こんなことを言います。「痛いのは外の現実の方だ」。リングの中での肉体的な苦痛よりも、現実世界での精神的な苦痛の方が耐え難い、ということ。そして当然、この時の彼の健康状態からすると、「リングの中での肉体的な苦痛」は「死」につながる可能性も高いわけで。
 つまり彼は、「現実」よりも「死に向かう肉体の苦痛」を選んだ。これは悲劇であると同時に、甘美な頽廃だと思います。
 
 この映画の長所のひとつは、上記のような内容と主演俳優の持ち味が合っていること。ミッキー・ロークは、若手の人気スターとして活躍していた頃から、既に頽廃的な雰囲気を漂わせていました。
 彼の昔の主演作でまずパッと浮かぶのは、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』『エンゼル・ハート』『ナインハーフ』あたりですが、どの作品でも彼のヌメッとした感じ、湿り気のある破滅的な佇まいが基調になっていたような気がします。もちろん今の彼は、当時と比べて顔も体型も変わってしまいましたが、それでも本質的な頽廃のムードは不変で、むしろ磨きがかかっているのかも。

 ちなみに私は、ミッキー・ロークのファンだった過去も無いし、彼自身に特別な思い入れはありません。ただ、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はかなり好きな映画です(マイケル・チミノ、最近どうしてるんだ?)。
 そういえば『ローグ アサシン』の記事でも、ジョン・ローンに絡めて『イヤー・オブ~』にチラッと触れたなあ。そのうちDVDで観直してみようか‥‥でもあの映画は、なるべくならデカいスクリーンで観たい。なにしろ初めて観たのが、今は無き渋谷パンテオンだったし。
プロフィール

サイボク

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
twitter.com/saiboku_ya

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