近況とか。

 本当は今週は、『たぶん』と2本立てで観た『うたかたの日々』の記事をアップするつもりだったんですが、ご覧のとおり、できてません。途中までは書けてるんですけどね。
 で、とりあえず言っておきたいのは‥‥この映画、よかったです。特に主演の津田篤さんがよかった。要注目の役者さんやな、と思いました。

 実は最近、田舎にいる家族に、やや深刻な事態が発生しまして。そのことでワラワラしています(「バタバタ」とは少し違う)。
 とにかく、しばらくはブログの更新、あまりできないと思います。来月中旬には、愛媛に帰って色々やらないといけないし。そのための準備とか、考えるべきこと・調べるべきこともあるし。
 まあ、そういうことです。

『たぶん』

(成人映画館での公開タイトルは『いとこ白書 うずく淫乱熱』)
2009年 日本 監督:竹洞哲也 脚本:小松公典、山口大輔 出演:赤西涼、かすみ果穂、倖田李梨、吉岡睦雄、岡田智宏、久保田泰也、サーモン鮭山、なかみつせいじ

 4日前に、ポレポレ東中野での特集上映「R18 LOVE CINEMA SHOWCASE vol.7」にて鑑賞。
 以前、雑誌やネットでこの作品について、「青春映画」「さわやかな作品」と書かれているのを何度か目にし、そういうイメージを持っていたのですが、実際に観てみると、かなり違った印象を受けました。なんというか、「一見、青春を描いているようで、実は“青春の後”を描いている映画」。そして、「一見さわやかなようで、実は底の方に悲しいものが流れている映画」。

 しかし、それは単なる私の思い過ごしなのかもしれません。というのも、劇中のいくつかの台詞が、かつて自分の身近な人が発した印象的な言葉とソックリだったりして、観ている最中に、やや動揺しながら実人生のあれこれに思いを馳せてしまったので、作品を正確に把握していないというか、自分に引きつけて脳内変換している可能性があるのです。
 だから本当は、もう一度観てから書きたい。でもしばらくその機会は無さそうなので、いちおう記録として、現時点で考えたことを書いておきます。
 またそういうわけで、以下に記した台詞なども、細かい部分が正確でないかもしれません。ご了承ください。

 仲の良いイトコ同士で、二十歳前後のさくら(赤西涼)ともみじ(かすみ果穂)。彼女たちが、恋やセックスに悩み、揺れる。短く要約すると、そういうストーリー。もちろん主人公は、その2人の女の子です。
 しかし私の心に強く残ったのは、前半にしか登場しない昌美(倖田李梨)。「さくらの高校時代の恩師で、良き相談相手」という設定なのですが、とにかくこの30代と思しき昌美さんの台詞、いちいちグッときました。

 例えば彼女が、こんな風なことを言います。「大人になったら何でもテキパキ決断できるようになると思っていたのに、大人になるにつれて、決断できないことが増えてしまった」。
 これ、私がトシくってから常に痛感していることでもあり、数年前に私の故郷の友人が、非常にしみじみした口調で語った言葉でもあります。ちょっとビックリしました。
 
 それと、こちらは身近な誰かが言ったとかではなく、映画の台詞として、とてもいいな~と思ったもの。辞職&結婚を後悔し迷っているらしい昌美と、さくらとの会話。
 さくら「離婚すれば?」 
 昌美「する理由が無い」 
 さくら「理由を探せば?」 
 昌美「見つける自信が無い」
 この場合は「離婚」ですけど、逆に「結婚」でも、あるいは「転職」でも「上京」でも、いろいろ応用可能というか。とにかく、もう若くはない人間が何かに踏み出したいけど踏み出せない、そんな臆病でもあり慎重でもあるようなグジャグジャした気持ちを、短い言葉で的確に表現した、味わい深い台詞だと思います。

 そしてこの昌美という人物、前半にはけっこう登場するものの、(さきほど述べたように)後半には登場しません。彼女の迷いがその後どうなったのかも、描かれません。まあ、あくまでも若い子たちがメインなわけで、昌美の描き方に特別な意味など無いのかもしれませんが、それでも私は、勝手に意味付けしてみました。
 つまり最終的に、昌美がさくらに乗り移った。というか、さくらが昌美になったんじゃないかと。

※以下の文章では、作品の結末に少し触れています。

 序盤から中盤にかけて、若いさくらは昌美の言動にあまり納得できず、「たぶん」という言葉に象徴される、大人たちのハッキリ言いきらない感じやグジャグジャした感じに、違和感を抱いています。
 しかし終盤での、少し歳をとったさくらは、「たぶん」的なものを身につけ始めている(ように見える)。そしてそういう点で、「さくらが昌美になった」。

 これは私の妄想ですが‥‥きっと、そんなさくらに接した若い子は、かつてさくらが大人に抱いたような違和感を抱き、それでもやがて歳をとって、自分自身が「たぶん」的なものを身につけてしまい、そしてさらに若い子が‥‥と、同じことが永遠に繰り返されていくのでしょう。
 この映画、富士山麓の小さな町が舞台になっていて、全編(終盤も)現地で撮影されているので、よけいにそういう、「狭い場所で延々と同じことが繰り返されていきそうな感」が強い。

 ラストの、さくらともみじが仲良く自転車で駆け抜けていく姿と、そこに流れる楽しげな主題歌。これは、「さわやかで前向きなラストシーン」なのかもしれません。
 しかし私には、「過ぎてしまえば二度と戻らない“非・たぶん”な頃への鎮魂歌」のように思えてきて、一瞬、胸が詰まりました。

『息もできない』

2008年 韓国 監督・脚本・出演:ヤン・イクチュン 出演:キム・コッピ、イ・ファン、チョン・マンシク、ユン・スンフン、キム・ヒス、パク・チョンスン
シネマライズ(東京)にて上映中、他の地域でも上映予定多数あり  
公式サイト→http://www.bitters.co.jp/ikimodekinai/index.html
 

2週間ほど前、シネマライズにて鑑賞。もともとは俳優であるヤン・イクチュンが、製作・監督・脚本・編集・主演の5役をこなして創りあげた長編監督デビュー作。
彼自身の辛い経験(生い立ち)をもとにした内容でありながら、自己愛や自己憐憫が前面に出ることもなく、深刻な中にユーモラスな要素も入った秀逸な映画なのですが、私にとっては、どうも今ひとつグッときませんでした。その原因は、メインの登場人物2人の造形にあるような気が。

取り立て屋のサンフンと、女子高生のヨ二。2人とも、暗く荒れた家庭で育った。
サンフンの父は、母に暴力をふるい続け、それがもとで母と妹は死亡。ヨ二の父はベトナム戦争の帰還兵で、精神的な後遺症があり、被害妄想による暴言が絶えない(「ヨ二が自分を殺そうとしている」など)。母はすでに死去。暴力的な弟がいる。

似た環境で生きてきたせいか、恋愛とは少し違う特殊な絆で結ばれていく、サンフンとヨ二。しかし彼らの人物像は、非常に対照的です。
サンフンは、暴力を見せられ続けたために自身もきわめて暴力的になってしまったという、「負の連鎖」の体現者。優しい面もあるものの、基本的に債務者や年下の同僚、そしてムカつく相手に対しては、すぐ殴る・蹴る・怒鳴る。
逆にヨ二は、「負の連鎖」を断ち切ろうとするかのように、常に気丈で理性的。自分の悩みや苦しみを一切他人に語らず、非行に走ることもなく、学校に通いながら父と弟の世話を続ける。

あえて単純な言い方をすると、サンフンは愚かすぎて、ヨ二は立派すぎるのです。両極端、というか。現実社会において、機能不全の家庭で育った人々は、サンフンでもなくヨ二でもなく、その間、あるいは2人を混ぜたような性格(人物像)である場合が多いんじゃないでしょうか。
もちろんフィクションでは、現実社会をそのまま反映させる必要は無いし、むしろ作り手としては、フィクションだからこそ、極端な人物造形で強烈な印象を狙ったのでしょう。しかし観客の感情移入という点では、どうなのかな、と。
 

私自身、この映画のいくつかの場面が過去の辛い記憶と重なり、観ていてウッとなったものの、作品自体には今ひとつ入り込むことができませんでした。もしサンフンとヨ二が(どちらか一方でも)、愚かでもなく立派でもない、そんな曖昧な人物として描かれていれば、すっと入り込めたかもしれません。
プロフィール

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。

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