『出逢いが足りない私たち』

2013年 監督・脚本:友松直之 原作:内田春菊 出演:嘉門洋子、藤田浩、佐倉萌、津田篤、阿部隼人、倉田英明、上田竜也、沖直未
◆9月14日~9月20日、池袋シネマ・ロサにてレイトショー
公式サイト→http://deaiga-tarinai.com/#id1

 今回はいつもの作品感想記事とは、ちょっと違いまして。友松監督から宣伝用レビューの依頼があり、サンプルDVDを観て書いてます。
 ただ宣伝用レビューといっても、監督からの「褒めて書け!」的な命令・指示などは一切ないので、シンプルに、観て思ったことだけを記しておきます。

 まずこの映画、公式サイトなどに「エロティックサイコサスペンス」とありますが、本当にそういう作品です。看板に偽りなし。「エロティック」と「サイコ」と「サスペンス」、全ての要素がしっかり入っています。
 
 特にエロティック要素は、かなり濃厚。
 一般映画で、ある程度名の知れた女優が主演の場合、「エロティックなんちゃら」と宣伝していても実際はそれほどエロくない‥‥というパターンが多いけど、この映画は違います。濡れ場の量も質も、ピンク映画とほぼ同じくらい。

 ちなみにピンクの場合、濡れ場を演じる女優は1作品につき3人くらいですが、この映画では、主演の嘉門洋子さんが、何度もある濡れ場のすべてを演じています。
 「それだと観ていて飽きるのでは?」と思う方もいるかもしれませんが、心配ご無用。なぜなら嘉門さんは1人2役で、「ヨシミ」と「陽子」という、イメージの異なる2人の女性に扮しているから(両方の役に濡れ場あり)。

 このヨシミと陽子は共通点もあるものの、職業や立場がかなり違います(売れないイラストレーターと、多少は売れてる芸能人)。さらに濡れ場のシチュエーションも違う。
 そして嘉門さんは2役をちゃんと演じ分けているし、ヘアメイクで外見の雰囲気もガラリと変えていて。そうそうヘアメイクといえば、この2役に関して、顔のメイクだけでなく、ボディのメイクや照明も変えているように見えます。ヨシミよりも陽子のヌードの方が、色白で肌に艶があるような‥‥。

 さて「エロティック」の話はこれくらいにして、次は「サイコ」と「サスペンス」を。それにはストーリーを説明しなければいけませんね。
 ヨシミはツイッターやフェイスブックにハマっていて、ほとんど依存症と言ってもいいくらい。ある日、自分のアカウントが誰かに乗っ取られていることに気づく。誰かが自分になりすまして、ネットで男を引っかけてヤリまくっているらしい。犯人を突き止めるヨシミ。しかし‥‥。

 この「しかし‥‥」のあとが問題で、詳細は伏せますが、なんというか、現実と幻想が入り混じった、不思議な世界に突入していきます。
 観ていてチラッと思い浮かべたのが、(最近ではなく昔の)クローネンバーグの諸作品。特定のメディアやメカニックなものにハマっているうちに、奇妙でダークな世界に入ってしまい‥‥というあの感じが、ちょっと似てるかな、と。

 そういうわけで、エロありサイコありサスペンスあり。上映時間71分。レイトショーだけど短いから、帰りは遅くなりません! って結局、いかにも宣伝っぽいこと書いてるよ~。

『百年の時計』

2013年 監督:金子修介 脚本:港岳彦 出演:木南晴夏、ミッキー・カーチス、中村ゆり、近江陽一郎、小林トシ江、鈴木裕樹、岩田さゆり、桜木健一、螢雪次朗、野口雅弘、金子奈々子、宍戸開、池内ひろ美、仁科貴、水野久美、井上順
★テアトル新宿ほか、各地の劇場で公開中
公式サイト→http://www.100watch.net/

 数日前に、テアトル新宿にて鑑賞。
 ところでこのブログ、個別の作品評をあまり書かなくなったこともあり、「一般映画(日本)評」のカテゴリーはすごく久しぶり。で、「前回は何だったのかな~」と見てみると‥‥『ばかもの』評。金子修介監督の作品が、2本続くことになります。
 
 といっても私、特に金子監督のファンというわけではなく。この『百年の時計』に関しても、例えば音楽の使い方とか、あまり好きになれない点がいくつかあるし。
 でも、それでも、「観てよかった」と断言できます。細部に引っかかるところがあっても、全体としては非常に見応えがありました。

 あ、それと、ブログの流れということでもうひとつ言えば。最近、私の故郷・愛媛の劇場について何度か書いてきて、さらに今回は香川が舞台の映画ってことで、なんか「四国シリーズ」みたいになってますが。これも、たまたまです。
 ただ隣県の出身者としては、香川の人、うらやましい。こういうご当地映画を持っているなんて、ほんと、うらやましいですよ。

 今「ご当地映画」と書きましたが、もう少し説明すると、この作品は「ことでん(琴平電鉄)開通100周年記念」の映画。つまり香川の電鉄会社の依頼によって作られた、ご当地映画というか、町おこし映画というか。
 しかし金子監督のインタビューを読むと、琴平電鉄も香川県も、映画の内容にはいっさい口出ししなかったそうで。それは作品を観れば分かります。
 なぜって、この作品、ちょっと(かなり?)独特だから。

 あらすじとしては‥‥美術館の学芸員・涼香(木南晴夏)が、地元出身の現代アートの巨匠・安藤行人(ミッキー・カーチス)に頼まれ、古い時計にまつわる人探しをするうちに、行人の秘められた恋が明らかになり‥‥というもの。
 結末は伏せますが、「明るく前向きな終わり方」とだけ言っておきます。そしてストーリーは全体的に、とても分かりやすい。(ついでに言うと、劇中に観光地や名産品が適度に出てくる。)これらの点では、いかにもご当地映画、という感じです。

 しかし描写や表現は、ちょっと実験的でアート映画風。なんというか、時空を超えたシュールかつファンタジックな表現が、途中からときどき織り込まれてクライマックスで炸裂! みたいな。
 その「時空を超えたシュールかつファンタジックな表現」というのは、例えて言うならフェリー二やベルイマン、かなあ。まあベルイマンについては、行人のセリフにチラッと出てきたから連想した、というのもありますが。

 とにかく「ご当地映画風」と「アート映画風」という、かなり対照的な要素が混ざり合って、独特の作品世界が成立している。面白いです。

 そしてこの映画、面白いだけではなく感動的。や、「感動」なんていう言葉はなるべく使いたくないんですけど、クライマックスのあたりで体が小刻みに震えて涙が出てきたので、これはやはり「感動」なのかなあ、と。
 
 具体的に言うと、千代美(小林トシ江)の長いモノローグのところ。千代美は年配の女性で、ストーリー的には脇役なのですが、ここで彼女の人生や感情が一気にブワッと押し寄せてくるわけです。
 このモノローグの内容もいいし、小林さんの口調や映し出される姿もいい。さらに言えば、そもそも千代美の人物造形がいい。
 メインの登場人物である行人と、脇役の千代美。同じ年配者でありながらあまりにも違うこの2人の対比が、グッと来るのです。

 行人は若いうちに故郷を飛び出し、都会でアーティストとして成功、国際的に脚光を浴び、言動は自由奔放。非常に華やかな人物。
 千代美は、おそらくこの小さな町からほとんど出たことがない。戦争で不自由になった足を引きずりつつ、暗く、静かに、言いたいことも言えずに生きてきた。

 この2人の人生の、どちらがいいとか悪いとかではなく、いろんな人生がある、ただそれだけ。そして華やかな人にも辛い過去があり、暗く生きてきた人でもこれから希望を持つことはできる。
 考えてみれば当たり前のことなのですが、こういうことを理屈ではなく情感として表現するのって、きっとすごく難しい。そのことに成功している映画、だと思います。

『ばかもの』

2010年 日本 監督:金子修介 脚本:高橋美幸 出演:成宮寛貴、内田有紀、白石美帆、浅田美代子、小林隆、浅見れいな、池内博之、中村ゆり、古手川祐子、岡本奈月
※6月3日にDVD発売(レンタル同時リリース)
公式サイト→http://www.bakamono.jp/

 10日ほど前、三軒茶屋中央劇場にて鑑賞。
 金子修介監督には色々な特徴があるものの、私にとっては、「アイドル的な女優を可愛く(時にはエロく)撮る」というイメージが強いです。だから今回は、その延長線上という感じで、元アイドルの内田有紀と美形の成宮くんをとにかく綺麗に撮っているんだろうな~と思いつつ観はじめたわけですが、ありゃ、なんだか違う。
 必要以上に綺麗に撮ってはいない。

 実家に住み、地元の大学に通うヒデ(成宮寛貴)。バイトはするものの勉強はしない。優しい両親(小林隆・浅田美代子)や姉(浅見れいな)に見守られての、気ままな暮らし。
 ある日ヒデは、年上の女・額子(内田有紀)と出会う。彼女の虜になり、のめり込み、結局ふられる。酷いふられ方。
 やがて就職したヒデは、またしても年上の女・翔子(白石美帆)と付き合う。いつも優しく世話を焼いてくれる翔子。しかしヒデは異様に酒を飲むようになり、荒れていく。友人・加藤(池内博之)の警告も無視し、飲み続ける日々。人前で酔って暴れ、仕事も欠勤続き。職も友人も恋人も、失う。
 ついに、飲酒運転で事故を起こしてしまったヒデ。アルコール依存症の専門病院に入院する。そして退院し、新たな生活を始めた頃、額子の母(古手川祐子)と再会。額子の現在の様子を聞き、彼女の住む町へと向かう。約10年ぶりに会った額子は、変わり果てた姿で‥‥。

 端的に言うと、この映画、アルコール依存症をかなり丁寧に描いています。悪化する過程、良くなる過程、せっかく良くなってきたのにまた飲もうとする過程。それらを、深刻になり過ぎず、しかし重いものとして、きちんと細かく描いている。
 ただひとつ気になったのは、禁断症状に苦しむシーンなどで、ホラー映画風の劇伴が使われていること。ちょっと違和感がありました。といってもそれは些細な問題で、全体的には演出も演技も充実しており、引き込まれました。

 つまり今回、成宮くんの美貌よりも芝居を堪能できたわけで。内田有紀についても同様。例えば、ヒデと額子が10年ぶりに会うシーンでは、待ち合わせ場所で2人が互いを見つけるという、ただそれだけの描写でさえ、彼らの表情や佇まいから、さまざまな思いが滲み出ていて、胸を打たれました。
 成宮くんも内田有紀も整った容姿の持ち主なので、どんなシーンでも、ある程度は綺麗だったりカッコよかったりするわけですが、その綺麗さやカッコよさよりも、彼らが醸し出すものに目が行くんですよね。金子監督であれば、美しい人をより美しく見せることもできるだろうに、今回はそれをせず、あえて芝居を前面に出している気がしました。

 ところで、この作品の原作は絲山秋子の同名小説。両者を比べると、映画化にあたって細部がいくつか改変されていることが分かります。そしてそれらは、いずれも成功していると思うのですが、特に私が感心したのが、ヒデの家族のキャラクターの改変。
 原作では、父親はわりと無愛想で、母親はパンチパーマ(!)をかけていて鬼にそっくり、姉も鬼系で田舎のおばさんっぽい、という設定。しかし映画では、父・母・姉ともに明るく優しく、母と姉はなかなかの美人で垢ぬけていて‥‥と、まるで正反対。
 結果的に映画の方では、ヒデのアルコール依存症について、こう解釈できるようになっています。「優しい家族に甘えて生きてきた男の子が、恋愛によって初めて挫折を知り、それを引きずったあげく、アルコール依存症になった」。

 これは私としては非常によく分かるというか、腑に落ちます。特に、「優しい家族に甘えて生きてきた男の子→アルコール依存症」というところ。まあ要するに、身近にそういう感じの男性が何人かいまして。
 私の知る限りでは、母親や姉に大事にされて育った男性というのは、決して悪い人じゃないけど、基本的に甘えているところがあって、何かで挫折すると過剰にショックを受け、荒れる傾向がある(もちろん皆が皆‥というわけではないですが)。
 映画『ばかもの』は、そういうタイプの男性の破滅と再生を、丁寧にしかも生き生きと描いた作品として、グッときました。

 最後にひとつ。この映画でも、近年の金子作品の常連である螢雪次朗氏が、キラリと光っています。ワンシーンのみの出演ですが、ヒデの親戚のオジサン役で、悪気はないけど甥や姪に余計なことを言ってしまうという、どこの親族にも1人はいそうなオジサンを、絶妙に演じています。「螢さん、さすがやな~」と改めて思いました。

『人魚伝説』

1984年 日本 監督:池田敏春 脚本:西岡琢也 出演:白都真理、江藤潤、清水健太郎、青木義朗、宮下順子、関弘子、宮口精二

 1週間ほど前に、渋谷のシネマヴェーラにて鑑賞。
 今回の『人魚伝説』の上映は、「妄執、異形の人々V」という特集の中の1本として、かなり前から決まっていたものなのですが、上映直前に池田敏春監督の訃報が入り、結果的には追悼上映のような形になりました。しかも池田監督は、この映画のロケ地(伊勢志摩)の海で自ら命を絶ったとのことで、複雑な思いを抱きながら鑑賞した人も多かったはず。私もそのひとりです。
 そして私の場合、前の記事で述べたように、ほんの少しですが監督と接点があったためか、観終わったあと、何かズシリと重いものを投げつけられたような感触が残りました。

 しかしそのような感触が残った最大の原因は、監督の死にまつわる現実のあれこれよりも、やはりこの映画が持つ不気味なまでのパワー、これにつきるでしょう。
 原発誘致派の権力者たちに夫を殺された海女が復讐を決意し‥‥というストーリー自体は「社会派人間ドラマ」風で、もちろんそういう要素が軸になってはいるものの、映画自体の(特に中盤以降の)印象は、「血まみれスプラッター・アクション」。とにかく血糊の量とヒロインの運動量が凄まじい。ちょっとやり過ぎじゃないか、と思うくらいで、観ていて圧倒されるとともに、唖然とする瞬間さえあります。

 「社会派人間ドラマ」風な題材である以上、もっと観念的あるいは思想的な表現も可能なわけですが、『人魚伝説』の場合、なんというか‥‥観念よりも情念、思想よりも疾走。って、ダジャレみたいな言葉ですね。でも真面目にそう思います。
 あの中盤での全裸格闘殺人シーンや、クライマックスでの鬼気迫る大殺戮シーンを、頭の中で再上映しているうちに、そんな言葉が湧いてきました。

 ちなみにこの映画、たしかにスプラッター的な描写が強烈なのですが、それだけが観どころというわけではありません。例えば、ヒロインの逃亡先である渡鹿野島の風景。この島の独特の歴史を物語る、朽ちた大型船が映り込んでいるショットなど、非常に印象的です。

 実は私、この映画は今まで、ビデオでしか観たことがありませんでした。その時の印象では、中盤の全裸格闘殺人が特に強烈で。しかしこうやってスクリーンで観ると、クライマックスの大殺戮や渡鹿野島の風景も、同じかそれ以上に強烈。
 これはモニターとスクリーンの違いなのか、それとも私の映画の見方が変わったのか。たぶん両方でしょう。そしてさらに、何だかんだ言っても「現実のあれこれ」と映画を重ねて観てしまったことも、関係しているような。というのも、全裸格闘は室内シーンですが、大殺戮と渡鹿野島は屋外シーン。伊勢志摩の風景や雰囲気が映っている画の方が、今回は沁みました。監督の死を思って。

 やはり今しばらくは、ちゃんとした評や感想を書くのは無理なようで。今回の記事は、「報告」ということにしておきます。

『アウトレイジ』

2010年 日本 監督・脚本:北野武 出演:ビートたけし、椎名桔平、加瀬亮、小日向文世、中野英雄、塚本高史、杉本哲太、國村隼、石橋蓮司、三浦友和、北村聡一朗
(全国各地で上映中)

 数日前に、新宿ミラノ座にて鑑賞。
 昔は北野映画がわりと好きで、新作が公開されるたびに行っていたのですが、だんだん違和感を持つようになり、『HANA-BI』まで観た時点で、その違和感がかなり膨らみまして。理由は色々あるのですが、そのひとつは、北野監督の描く絵。あの絵も、それが映画の中でバーンと大写しになるのも、ちょっと苦手なんですよ。なんというか、過剰な叙情アピールみたいなものを感じてしまって。まあ、こっちが勝手に感じてるだけなんでしょうけど。
 結局その後は、『座頭市』と今回の『アウトレイジ』しか観ていません。この2本は題材的に面白そうだったし、鈴木慶一が音楽を担当していることもあって、興味を持ったのです。で、『座頭市』はまあまあという感じだったのですが、『アウトレイジ』はかなり面白かったです。絵も出てこなかったし。

 さてこの映画、ジャンルとしてはいわゆるヤクザ映画。内容的には、ヤクザ同士の駆け引きと裏切りと暴力が満載。となると、やはり東映のその種の作品群や、各社のヤクザものOVなどを連想するわけですが。
 しかし『アウトレイジ』は、そういう従来のヤクザものとは少し感触が違います。理由は多分、ヤクザたちの背景が分からないようになっているから。
 例えば、彼らの情婦らしき女性はチラッと登場しても、妻子や親兄弟といった家族は全く出てこない。また、彼らの生い立ちやヤクザになった理由なども、全く描かれない。
 さらに「エロさが希薄」というのも、従来のヤクザものと違う点。ベッドシーンは1回だけあるものの、静かな儀式みたいに描かれていて、エロとか性欲とかそういう感じではないし。台詞の面でも、「バカヤロウ!」「コノヤロウ!」と荒っぽい言葉が頻出するわりには、下品なエロ言葉は出てこないし。

 つまり『アウトレイジ』のヤクザ描写では、家族や過去や性など、いわゆる人間的というか、人間味の部分が除外されているんですね。だからこの映画のヤクザたちは、人間というよりも、「社会を構成する要素」に見える。そしてその社会は、駆け引きと裏切りと暴力に満ちている。これ、ヤクザ社会だけでなく一般の社会をも表現しているのでしょう。
 極端な言い方をすると、この映画は、人間模様ではなく「社会の構造」を描いているわけです。だから、いわゆる人間ドラマを期待して観るとガッカリするはずで、そういうのとは別物だと割り切って観た方が楽しめる。
 しっかり人間を描くタイプのヤクザ映画もいいけれど、こういう、社会や世間の構造それ自体を浮かび上がらせるようなヤクザ映画も、それなりの面白さがある‥‥ということです。そうそう、鈴木慶一があえてドイツ製のシンセ1台だけで作ったという硬質で抽象的な劇伴は、まるで作品の性質を象徴しているようでした。

 ところで今回、椎名桔平が暴力的なヤクザを演じているわけですが。個人的には、椎名氏といえばやはり『ヌードの夜』。あの映画で初めて彼を観た時、「すごい役者さんが出てきたな~」と思ったものです。かなり凶暴な役で、とにかく異様な迫力があり、画面に出てくるだけで不気味。でも時折、無邪気な表情も見せたりして。
 今回はその時ほど極端ではないものの、やはり凶暴さの中に無邪気さが混じっているような役。彼はやはりこういう役が上手い。というか、似合う。
 彼は『ヌードの夜』のあと有名になるにつれて、ちょっと顔つきや体型が変わってしまった(と私は思う)のですが、今回観た限りでは、昔の鋭さが戻ってきた感じです。そのうちまた石井隆監督の映画で、濃厚な役を演じてほしいなあ。

『ロボゲイシャ』

2009年 日本 監督・脚本:井口昇 出演:木口亜矢、長谷部瞳、斎藤工、志垣太郎、亜紗美、泉カイ、松尾スズキ、生田悦子、竹中直人
上映中  公式サイト→http://robogeisha.com/

 1週間ほど前に、シアターN渋谷にて鑑賞。井口昇監督の新作なので期待して観たのですが、う~ん、もったいない。「芸者の下半身が戦車にトランスフォームする」とか「城に手足が生えてロボットになる」といった個々のアイデアは凄く面白いのに、その面白さがうまく生かされていないというか。
 例えば私は、その「ゲイシャ・トランスフォーム」の映像を予告編で観た時、妙にウケて爆笑したのですが、本編のクライマックスでその映像を観た時は、あまり面白いと思えませんでした。何故なのか。

 まずストーリーは、早くに親を亡くした姉妹(姉は芸者で妹はその付き人)が、国家支配を企む製鉄会社の会長親子に拉致され、芸者の姿をした暗殺ロボットとして生まれ変わり‥‥というもの。
 そして映画の冒頭は、ストーリー展開とは直接関係ないイメージ的なシーン。そこには、既にロボット化した姉妹や、会長親子の手下である「天軍」(天狗のお面・黒下着・網タイツ着用)が登場、派手に暴れ回ります。つまり冒頭から、珍妙かつハデハデなわけで。
 さらに姉妹が拉致されるあたりからも、製鉄会社の奇抜な外観(ややファンシーな和風の城)と装飾過多な内装、暗殺集団「裏ゲイシャ」の間抜けなファッション(髪型は芸者風で衣装はスポーツブラ&ショーツ)など、珍妙なものが次々に登場。最後までこのノリが続きます。
 
 要するにこの映画、冒頭からほぼずっと、珍妙・奇抜・派手のオンパレード。だから観客は次第にその種のものに慣れて、マヒしてくるというか。もちろん個人差はありますが、少なくとも私の場合、クライマックスの頃にはもう慣れていて、「ゲイシャ・トランスフォーム」や「城ロボ」が登場しても、あまり面白みを感じることはできませんでした。

 冒頭に派手なシーンを持ってくるのは、観客の興味を引き付ける意味である程度は有効だと思います。しかし、その後の展開でも派手や珍妙を連発するのは、あまり効果的ではないような。やはり、しばらくはやや地味に抑えておき、徐々に派手さ・珍妙さを増してクライマックスでグワッと頂点に‥‥という風にしてほしかったです。
 例えば、同じ井口監督の『恋する幼虫』(2003)の場合。冒頭での主人公の幼児体験を描いた部分で奇怪な描写が登場するものの、その後は一応リアルというか日常的な世界が続き、徐々にまた奇怪な描写が現れてクライマックスからラストにかけてグワッと‥‥。こういう構成だと、終盤の奇怪さが衝撃的なものになりますよね。
 
 あと、色について。この『ロボゲイシャ』は全編を通して色使いも派手なのですが、色彩の面でも「最初は抑え気味で徐々に鮮やかさを増す」ということを意識すべきだったのでは?

※以下の文章では、映画の終盤の内容に触れています。
 
 ところで私は以前『片腕マシンガール』(2007)を観たとき、「井口作品に漂う人生観・人間観はシビアだ」と書きましたが、今回もやはり同じようなことを感じました。特に、天軍や裏ゲイシャの家族たちの描き方について。
 天軍も裏ゲイシャも、主人公姉妹と同じく会長親子に拉致された身なので、彼女たちの家族(祖父母や兄など)は、長年にわたって救出活動を続けています。しかし結局彼ら家族たちは、すっかり変わってしまった孫娘や妹を、自らの手で殺害。
 そしてこの殺害の過程が、(一部にやや感傷的な描写はあるものの)いわゆる悲劇的な感じではなく、わりと当たり前のことのように淡々と描かれているのです。なんというか、井口監督はシビアかつ厭世的な人なのかな? などと、ふと思いました。

『あんにょん由美香』

2009年 日本 演出・構成:松江哲明 出演:林由美香、カンパニー松尾、平野勝之、いまおかしんじ、華沢レモン、入江浩治、横須賀正一、柳田友貴、キム・ウォンボク、ユ・ジンソン、柳下毅一郎、中野貴雄、野平俊水
各地で上映中または上映予定あり(東京など既に終了した地域もあり)  
公式サイト→http://www.spopro.net/annyong_yumika/

 数日前に、ポレポレ東中野にて鑑賞。早世した女優・林由美香についてのドキュメンタリー映画。結論を先に書くと、この映画、今回とは別のアプローチで続編を作ってほしいです。

 林由美香(1970~2005)は、AVやピンク映画で活躍した女優。私が初めて彼女の出演映画を観たのは15年ほど前で、以来、コミカルなものからシリアスなものまで、さまざまな役柄を的確にそして生き生きと演じる彼女の姿を、観てきました。
 といっても私は、彼女の膨大な出演作品の一部しか観ていません。また、ご本人にお会いしたこともありません。しかしこの文章では、彼女のことを馴れ馴れしくも「由美香さん」と呼ばせていただきます。自分と年齢(生年)がわりと近かったり、誕生日がものすごく近かったりで、彼女に対して淡い親近感のようなものを抱いているせいか、何となくその呼び方がしっくりくるので。
 
 さて、ここからが本題。この映画を作った松江哲明(1977~)は、かつて由美香さんから「松江君、まだまだね」と言われたことがあるそうで、映画の冒頭では、そのエピソードが紹介されます。彼が学生のとき、すでにプロの女優として活躍していた彼女に自分の映像作品を見せたところ、返ってきた言葉が「松江君、まだまだね」。
 
 これ、言われた方はもちろん辛かったと思いますが、言った方もかなり辛かったはず。おそらく由美香さんは、その松江氏の作品に才能や魅力を感じたのでしょう。だからこそ、未熟な部分や足りない部分について、あえて心を鬼にして酷評した。しかも具体的に酷評するのではなく、「まだまだ」という非常に抽象的な言い方をした。これはつまり、「どこがダメなのかは自分で考えなさい(そうすればあなたはもっと伸びる)」ということ。

 そう、松江氏は、由美香さんから宿題を出されたわけで。彼はその後の人生において、色々な経験や創作活動を重ねつつ、折に触れて彼女の言葉を思い出し、考え続けなければならなかったはず。
 そして今、彼女を題材に映画を作るのなら、現時点での自分なりの答えを表明するべきなのです。その作品のどこがダメだったのか、それをどう克服してきたのか、あるいはまだ克服できていないのか。
 
 しかし『あんにょん由美香』では、そういった答えが表明されていません。
 映画全体の内容は、彼女が出演した珍妙な韓国製エロ映画の謎を探りつつ、彼女と深い関係にあった日本の監督たちを取材し、これら2つの流れを意外な形でリンクさせる‥‥というもの。松江氏のルーツが韓国ということもあり、色々な受け止め方のできる味わい深い展開ではあるのですが、結局、冒頭の「まだまだね」の件は放置されたままなので、観終わって物足りない印象が残りました。
 
 そこで最初に書いたように、続編を希望します。松江氏には、いつか『続・あんにょん由美香』を作っていただきたい。そしてそこで、自分なりの答えを表明していただきたい。
 もちろんその際には、由美香さんに酷評された学生時代の作品を、我々に見せてください。恥ずかしいかもしれませんが、今回あなたは、一部の関係者が恥ずかしがっている韓国製エロ映画を(ある意味)大々的に公開したのだから、ご自分の恥ずかしい作品も公開するべきですよー。
 
 と言いたいところなのですが、映画サイト「INTRO」のインタビュー記事によると、松江氏はその作品を消してしまって、もう持っていないのだとか。彼いわく、「由美香さんに“まだまだね”と言われたこともあって、もう二度と観たくない」。あの、それ、ちょっと違うんじゃないでしょうか。「まだまだね」と言われたからこそ、大事に持っておくべきだったのでは?
 まあ、私がそんなことを言っても仕方ないですよね‥‥。とにかく実物が無いなら無いなりに、何とかして由美香さんからの宿題に決着を付け、その過程を映画にしていただきたい。そうすれば、松江氏自身のことだけでなく由美香さんのことも、より深く描けるはずです。

≪追記(10月3日)≫
 最後の部分、やや分かりにくいかもしれないので補足しておきます。つまり、由美香さんが「まだまだね」と評した作品について考えていけば、彼女の色んな面が見えてくるんじゃないかと。例えば、彼女が創作という行為をどう捉えていたか、とか。映像表現というものについてどんな考えを持っていたか、とか。
 せっかく彼女が言葉を残してくれたのだから、そのあたりをもっと掘り下げていただきたい。私としては、そんな意味も込めて、この「批判混じりの提案記事」を書きました。

『ディア・ドクター』

2009年 日本 監督・脚本:西川美和 出演:笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、八千草薫、井川遥、松重豊、岩松了、笹野高史、香川照之
全国各地で、上映中あるいは上映予定あり  公式サイト→http://www.deardoctor.jp/

 10日ほど前に、シネカノン有楽町1丁目にて鑑賞。いい映画なので、オススメする意味でブログに書こうと思いつつも、なかなか書けませんでした。なぜなのか。しばらく日が経って、何となく分かってきました。
 この映画、アクやムダが無さすぎるというか、クールにまとまりすぎていて、私にとってはやや吸引力が弱い。多少出来が悪くても、ある種の過剰さが感じられる映画の方が、個人的には惹かれるので。

※以下、ネタばれ気味です。 
 
 伊野(笑福亭鶴瓶)は、過疎の村で献身的に働く医者。村人たちから慕われ、尊敬されている。しかし突然、彼が失踪。2人組の刑事・波多野(松重豊)と岡安(岩松了)は、伊野の身辺調査を始めた。すると意外な事実が明らかに。
 この「意外な事実」は、どんでん返しとして作品の終盤に登場するわけではなく、序盤から実にアッサリと描かれます。また予告編などでも、既にかなり明かされていた模様。だから、(ネタバレになるかもしれませんが)ハッキリ書かせてもらいます。主人公の伊野は、医師免許を持っていないニセ医者だった。
  
 非常に印象深いシーンがあります。喫茶店で波多野と岡安が、伊野の診療所に薬を卸していた営業マンの斎門(香川照之)と話すシーン。
 伊野がニセ医者ながらも過疎の村で老人たちに尽くしていた理由について、波多野が嘲笑的に「やっぱり“愛”なんですかねえ?」。すると突然、斎門が椅子ごと後ろにガタっと転倒。思わず手を差し伸べる波多野。すると斎門、「そういうことじゃないんですか? 刑事さんは別に僕のこと愛してなんかいないでしょ? それでも、とっさにそうしたでしょ?」(細部が違っているかもしれませんが、だいたいこんな意味の台詞)。
 
 「あ~、なるほど!」と思いました。映画の中だけでなく現実にも、他人に尽くす人を嘲笑したがる輩というのはよく居るもので、おそらく私自身も時々そういう嘲笑をしているのだと思いますが、そんな「嘲笑屋」たちの浅い笑顔を凍りつかせる見事なリアクション。
 そしてこのシーンは、この映画の核心に迫る部分でもあります。というのも、伊野がなぜ過疎の村でニセ医者をやっていたのか、その理由というか心境は、結局ハッキリとは描かれないからです。つまり、観客が自分で想像するしかない。その想像の取っ掛かりとなるのが、上記のシーンなのでしょう。
 
 という具合に、色んな意味で優れたシーンではあるのですが、その一方で、演技や演出が淡々とし過ぎているような気もするんですよね。

 香川氏も松重氏も岩松氏も、実に適切な演技をしていて、それが引きの画で冷静に撮られている。このシーンに限らず全体的に、役者さんの芝居は達者なうえに抑制が効いているし、演出も押しつけがましくなく落ち着いているし、常に監督の聡明さが感じられます。
 これはもちろん長所ではあるのですが、しかし個人的には、もう少しアホでもいいのでは? と思ったりもします。つまり、どこかヤリ過ぎな感じ、クドい感じもあったほうが、面白んじゃないかと。面白いとは、人の心に入り込む、ということでもあるわけだし。

 ところで私、西川美和監督の長編映画はすべて観ています。まず1作目の『蛇イチゴ』で、若いのに大した人やなーと感心し、次の『ゆれる』は世評と違って今ひとつ感心しなかったものの、今回の『ディア・ドクター』は面白そうなので観に行った次第。
 しかし今まで書いてきたように、「いい映画」とは思っても、あまり「面白い」とは思えず。実は『蛇イチゴ』の時も似たような感触でした。やはりもう少し過剰であってほしいというか。

 ただ、西川監督の持つ冷静さや押しつけがましくない演出は、ある種の題材に対しては非常に有効であるような気もします。例えば差別の問題などを彼女が映画で取り上げた場合、感情的に結論や主張を押し出すのではなく、冷静に多面的な描き方をしてくれるんじゃないかと。
 彼女は今回の作品で、主人公のニセ医者を肯定も否定もしていません。彼が村のために懸命に働く姿を描く一方で、彼が無責任な行動に出たことや、村から多額の報酬を受け取っていたことも描いています。彼は善でもなく悪でもない、と。たぶん西川監督は、善悪を判定するよりも他に大事なことがある、と思っているのでしょう。そんな彼女に、人々が善悪の基準だけで捉えがちな問題を描いてみてほしいです。

『東京ギャング対香港ギャング』

1964年 日本 監督・脚本:石井輝男 脚本:村尾昭 出演:鶴田浩二、高倉健、丹波哲郎、内田良平、安部徹、待田京介、八名信夫、高見理紗、三田佳子

 先週、新文芸坐の健さん特集にて『ならず者』と2本立てで鑑賞。『ならず者』と同じく、香港とマカオで海外ロケを行ったギャング映画。
 
 とにかく上映プリントの変色っぷりが凄かったです。カラー映画のプリントが古くなると赤茶色っぽくなる場合がある、ということは知っていたし、実際にそうなっている作品を観たこともありますが、今回は「赤茶色っぽい」どころではなく「あまりにも赤茶色」。まるでモノクロ映像の黒やグレーの部分が全て赤茶色になったような、と言えば分かっていただけるでしょうか。
 そんなわけで、さすがに観づらかったし、特に細かい部分はよく見えなかったので、作品内容については、あまり書かないでおきます。
 
 ちなみに『ならず者』は、これと同じ年に同じ会社(東映)で製作された作品ですが、多少音声が途切れていたものの、映像はわりと良好でした。この違いは何なのかなあ。上映回数の違いか、保管方法の違いか。はたまた『ならず者』の方だけ、あとでニュープリントが作られたのか。(私にはこのあたりの専門知識が無いため、詳しいことは分かりません。ご了承ください。)

 ところでこの『東京ギャング~』と『ならず者』は、ロケ地や封切時期や製作会社のみならず、監督・出演者などあらゆる面でやたらと共通点が多いので、もしかしたら2本同時に撮影したのかも、と思っていたのですが。調べてみると、そうではありませんでした。
 
 石井監督のインタビュー本『石井輝男映画魂』(ワイズ出版)によると、製作順は『東京ギャング~』の方が先で、まず『東京ギャング~』を低予算で作ったところ、ある程度ヒットしたので、次に予算を増やして『ならず者』を作ることになったそうです。だから『東京ギャング~』の時は撮影期間が短かったり、海外のロケ地で隠し撮りをする羽目になったり(正式に撮影を申請するとお金がかかる)、とにかく色々と大変で、それに比べると『ならず者』は楽だったとか。
 そういえば同じ香港ロケと言っても、『東京ギャング~』ではスラム街が延々と映っていたのに対し、『ならず者』ではそういう地域とともに観光地的な場所もかなり映っていたような。これってやはり、「無許可の隠し撮り」と「正式に申請した上での撮影」の違いなのでしょうか。

 それと『東京ギャング~』は、序盤は健さんが主演(鶴田浩二は全く出てこない)、中盤以降は鶴田浩二が主演(健さんは全く出てこない)、という奇妙な構成になっているので、もしかしたらスケジュールの都合か何かで2人が一緒に参加できなかったのかも、と推測したわけですが。またしてもハズレでした。
 
 先述の『石井輝男映画魂』によると、特にその種の事情は無かった模様。そして石井監督は、脚本を色々書き直しているうちにああいう構成になってしまった‥‥というようなことを仰っています。ただこの発言自体は、ちょっと遠慮がちなのでは。
 というのも、この本を読んだ誰もが感じると思うのですが、石井監督は鶴田氏のことをやや嫌っていたようなのです。で、健さんのことは非常に気に入っていた。そしてこの映画のオープニング・クレジットでは、鶴田氏の名前が最初に単独で出てくる。つまり、会社側はあくまでも「鶴田浩二の主演映画」として企画したのに、石井監督はやはり健さんをメインで撮りたくて、その妥協点を探るうちに(?)ああいう構成になったんじゃないでしょうか。もちろん私の勝手な推測ですけど。
 
 そういえば映画の中で、鶴田氏扮する男がヤクの禁断症状でのたうち回る場面と、ケバいお姉ちゃんがエロいダンスをしている場面とが、なぜか執拗にカットバックされていました。この2人の登場人物は何の接点も無いので、恐らくイメージ描写(?)なのでしょう。いかにも石井監督らしい奇抜な演出。とはいえ、男がヤク中であることがその場面で唐突に明かされたり、のたうち回る姿が実に情けない感じで映っていたり、なんというか、監督の鶴田氏に対する悪意が滲み出ているような気も‥‥。
 
 というわけで今回は、変色により画面が観づらかったため、作品の内容よりも裏側について、色々と書き連ねてみました。たまにはこういう文章もいいんじゃないの? と寛大な心で許していただければ、ありがたいです。

『ならず者』

1964年 日本 監督・脚本:石井輝男 出演:高倉健、丹波哲郎、杉浦直樹、安部徹、三原葉子、南田洋子、高見理紗、赤木春恵、加賀まりこ

 数日前に、新文芸坐の特集「孤高のスタア 高倉健」にて鑑賞。健さん演じる殺し屋・南条が、香港から横浜そしてマカオへと、自分をハメた依頼主の毛(安部徹)を追い続けるが‥‥というストーリー。
 2本立てのもう1本『東京ギャング対香港ギャング』がわりと珍妙な映画だったので、それに比べて「普通に面白いアクションもの」という印象を受けたのですが、やはり石井輝男監督だけあって、ときどき過剰だったり過激だったりする描写があり、独特の味わいを生み出していました。
 
 例えば南条が、宿の年老いた女主人(赤木春恵)に暴力をふるって殺してしまうシーン。この女主人は、自分の娘(高見理紗)を見殺しにして殺した犯人から大金をせしめるような酷い人物なので、南条が彼女に対して怒りを感じるのはもっともだと思いますが、それにしても沈着冷静なプロの殺し屋である彼が、怒り狂って老婆をガンガン痛めつけるさまは、やや異様というか過剰な気もします。
 ただ南条というキャラクターは、人を騙すなどの卑怯な行為を嫌っているという設定なので、そういう彼の真っすぐな部分を強く表現したシーンとして観ることもできます。
 
 また、南条と関わりのある組織のボス・蒋(丹波哲郎)が、自分を裏切った部下の明蘭(三原葉子)を撃ち殺すシーン。こちらで注目すべきは暴力描写ではなく、撃ち殺す前に蒋がピストルでピアノの鍵盤を叩いて、ショパンの『葬送行進曲』を奏でるところ。
 や、正確に言うと『葬送行進曲』の、例の有名な最初のフレーズだけを延々と奏でるのですよ。この描写、面白いしカッコいいんですけど‥‥ちょっとクドい。短いフレーズを何度も何度も何度も繰り返すので‥‥。でもまあ、タンバ先生のむやみに大物感あふれる佇まいと相まって、普通の迫力とはちょっと違う、「強引かつ粘っこい迫力」とでもいうものが漂っていたのは確かです。

 そしてもうひとつ、こちらは殺す・殺されるではなく人を救うシーン。南条が肺病持ちの娼婦(南田洋子)のアパートで、彼女のノドに詰まった血を自分の口で吸いだしてやる描写。なんつうか、激しいです。そして少々グロテスク。大量の血を口移しならぬ口受け(?)で、ヂュルルルルッと吸って、ビャーッと吐き捨てるわけですから。しかしこれも、南条の真っすぐさ、ひたむきさの表現として観ることも可能でしょう。
 
 それにしても、このとき居合わせた刑事(杉浦直樹)が、南条に口ゆすぎ用の水を手渡す際、コップではなく片手鍋に水を入れて持ってきたのは、ちょっと可愛かった。コップでは少ししか水が入らないから、持ちやすくてしかも水がたくさん入る片手鍋で‥という気遣いか。あるいは、慌てていて「とにかく早く水を!」と、たまたま目に入った片手鍋を夢中でつかんだ、とか。
 いずれにせよ、このあと南条と刑事が立場の違いを超えて奇妙な友情をはぐくむのも、何となく納得できます。片手鍋、監督の意図的な演出なのかなあ?
プロフィール

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
twitter.com/saiboku_ya

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