『アラサーよっこらしょっと!』

成人館での公開題:『肉体婚活 寝てみて味見』
2010年 日本 監督:森山茂雄 脚本:佐野和宏 出演:みづな れい、上原優、伊藤太郎、後藤佑二、倖田李梨、佐野和宏
全国の成人館で順次上映中

 5日前に、上野オークラ劇場にて鑑賞。なお、封切前にこの映画を紹介したとき、関係者の方のブログをもとに、原題を『アラサーよっこらしょ』と書いたのですが、実際に作品を観てみると、ラストに『アラサーよっこらしょっと!』と表記されていた(ような気がする)ので、今回はそちらを書きました。
 
 恋愛が面倒で、特定の恋人を作らない主義のヨッコ(みずな れい)。安定した生活を夢見て、下川(後藤佑二)ら高収入男性との婚活デートを繰り返すアリサ(上原優)。惚れっぽくて、いつも振られてばかりのパルコ(倖田李梨)。アラサーの彼女たちは、佐藤(佐野和宏)がマスターを務めるバーの常連客だ。
 そのバーには、もうひとり常連がいる。酒を口に入れる時以外、常にマスクを着けている無口な男(伊藤太郎)。ある日ヨッコとアリサは、道で偶然その男・須賀と会い、話をするうちに意気投合。
 実は須賀は生まれつき口元にアザがあり、幼い頃から周囲にいじめられ、孤独に生きてきたのだった。そしてそんな自分の人生を、「白い模様のあるカラス」の物語として、絵本にしようとしていた。ヨッコはしだいに彼に惹かれていき‥‥。

 さてこの映画、ちょっと妙な構成になってまして。まず前半はアリサの婚活がメインで、後半はヨッコと須賀の交流がメインになり、ラストでは、須賀の人生(=絵本の内容)が重要な位置を占めます。
 まあ作り手側としては、アリサの打算的な婚活と、ヨッコ&須賀の純な恋愛を、対比させて描いたのかもしれませんが。最終的には、やはりこの作品はヨッコ&須賀の物語であり、同時に須賀の人生の物語でもあるので、アリサの婚活パートは短めにして、ヨッコ&須賀のパートをもう少しじっくり描いてほしかったです。

 あとパルコと佐藤が、ヨッコ&須賀のパートに(実質的には)全く絡んでこないのも、ちょっと気になりました。なんというか、分離している感じ。
 例えば、ヨッコやアリサと親しくなった須賀が、パルコや佐藤とも少し打ち解けて話せるようになり‥‥という描写があれば、そこは微笑ましくていいシーンになっただろうし、何よりも各パートが分離せず、ある程度は繋がっていたと思います。

 ところで今回、脚本が佐野和宏ということで、作品の中に、いかにも佐野氏らしい特徴がいくつか見受けられました。まずは、「孤独な青年が自分の気持ちを絵本に託す」という、ある種のセンチメンタリズムというか、純朴さというか。
 例えば、私がこのブログで何度か触れた、彼の監督・脚本・主演作『Don’t Let It Bring You Down』(原題)。このタイトルは、ニール・ヤングの同名曲から取られたもので、劇中でも登場人物たちが、その曲に言及したり歌詞を呟いたりするわけですが、さらに最後の最後、エンドクレジットの後に、歌詞の一部が英語と日本語の両方で表記されます。そしてその内容は、映画のテーマとピッタリ合っています。ちょっと合いすぎなくらい。
 今回の『アラサ―よっこらしょっと!』でも、須賀の人生(およびこの映画のテーマ)を詩的に表現した絵本の内容が、最後に具体的に示されます。こういう、やや過剰ともいえる純朴なセンチメンタリズムが、佐野氏の中にはあるんですよね。改めて感じました。

 そして上記のこととも関連しているのですが、佐野氏のもうひとつの特徴は、「ストーリーやテーマを分かりやすく表現する」ということ。さすが、瀬々敬久監督『トーキョー×エロティカ』のDVD特典映像で、瀬々監督に向かって「オメーの作品も言ってることもワケわかんねーんだよ!」と言い放った男。あ、細かい言い回しは違いますが、だいたいそういう意味のことを仰ってました。
 そして実際、佐野氏の監督作(私が観た何本か)は、テーマというか「言いたいこと」を率直に差し出してくるような作品です。今回の脚本もそう。

 とにかく「センチメンタルで分かりやすい」というのが、佐野作品の特徴かと。そして私は、そういうのが決して嫌いじゃないのです。
 ついでに書くと、佐野氏のような外見的に渋くてエロい人が、そういう内面を持っている‥ということが、私にとっては面白いわけで。

 やたらと佐野氏のことばっかり書いてしまいましたが、実は私、森山茂雄監督の映画は今回が初めてでして。まだ森山監督の特徴や持ち味は、つかめていません。スミマセン。
 ただ今回、ピンク映画初出演の女優(みずな れい)や、ちょっと素人っぽい感じの男優たち(伊藤太郎・後藤佑二)を、うまく使っていたと思います。皆さん、それぞれ役に合っていました。監督のキャスティング・センスと演技指導が、秀逸だったのではないかと。

 しかしそれにしても、やはり‥‥佐野氏が脚本&出演だと、どうしても彼の色が出すぎてしまうような気がします。見た目も中身も、かなり濃厚な人だから。
 今後は、森山監督がご自分で脚本を書くか、あるいは佐野氏以外の方に頼んだほうが、いいんじゃないでしょうか。そして佐野さんは、早くご自分の新作を撮ってください~。

『からっぽ人魚』

成人館での公開題:『スケベな住人 昼も夜も発情中』
2010年 監督:竹洞哲也 脚本:小松公典 出演:藤崎クロエ、津田篤、岩谷健司、毘舎利敬、倖田李梨、日高ゆりあ、サーモン鮭山、岡田智宏、佐々木麻由子
【現在、上野オークラ劇場と横浜光音座Ⅱで上映中(10月28日まで)。その後、全国の成人館で順次上映】

 3日前に、上野オークラ劇場にて鑑賞。今回、この作品の関係者の方々が主催された鑑賞ツアーに参加したところ、(特に狙ったわけでもないのに)サーモン鮭山氏の隣に座れることになり、ちょっと緊張しながら観ました。
 さてこの映画、ひとことで言うと「ロードムービー+下宿モノ」。約60分しかない上映時間の中に2つのジャンルがブチ込まれていて、登場人物も多く。しかも彼らが、それぞれの出身地(=演じる俳優の出身地)の方言で喋ります。竹洞・小松コンビ、いろいろ挑戦してますなあ。
 
 青森一郎(岩谷健司)と和歌山二郎(毘舎利敬)は、家庭の事情により苗字は違うものの兄弟で、一緒に暮らしている。2人とも訳ありの元ヤクザ。彼らは滞納している家賃を体で払うよう、家主の広島響子(佐々木麻由子)に迫られ、彼女の相手をする。が、猛烈な性欲を持つ彼女につき合いきれず、逃げ出すことに。
 いろいろあって、辿り着いたのは海辺の町。砂浜でダベっていた兄弟は、ビキニ姿の美女(藤崎クロエ)が倒れているのを見つける。彼女は無事に生きていたが、記憶喪失になっていた。そこへ現れたのは、訳ありヤクザの神戸キタオ(津田篤)。兄弟は美女に「ノンちゃん」と名付け(ノン・ネームだから)、キタオは自分の住む下宿屋に彼女を連れていく。勝手についていく兄弟。
 その下宿屋にはキタオの他に、ひたすら枕営業に励む保険外交員・島国一子(日高ゆりあ)、10年も浪人している京大東大子(倖田李梨)、気弱なヘナチョコ大家(岡田智宏)‥‥と濃すぎる面々がいて、そこにノンちゃんと兄弟が加わったものだから、いっそう賑やかに。さらにキタオと因縁のある不気味な殺し屋・八戸(サーモン鮭山)が突然現れ、ドタバタの中にも深刻な空気が漂い始め‥‥。

 観ていると、兄弟の視点で進行する話かと思いきや、途中で現れたキタオの回想シーンが何度も出てきたりするので、ちょっと視点が混乱しているような気がして、鑑賞直後のオフ会で、脚本の小松さんにやや文句めいたことを言ってしまったのですが。考えてみると、「ロードムービー+下宿モノ」なのだから、「ロード部分は兄弟の視点、下宿部分はトキオの視点がメイン」と解釈すれば納得できます。小松さんスミマセン。
 ガハハと笑って観られる楽しい作品ですが、実はそういう凝った構成になっていて。作り手の緻密な計算とバランス感覚、あなどれないですね。

 ただ、ひとつ残念なことがありまして。この映画、全体的に、男性キャラに比べて女性キャラの描き込みが浅いような。
 といっても、もちろん「からっぽ人魚=ノンちゃん」に関しては、「過去に縛られるヤクザな男たちの対極」という意味で、象徴的な存在なので、彼女の過去や背景が描かれなくても全然OKなのですが、私が気になるのは、島国一子と京大東大子。彼女たちは、(ノンちゃんと違って)何かの象徴というわけでもないし、(広島響子と違って)出演シーンも多いのに、背景が全く描かれていないので、人物像がやや平面的な感じ。もう少し掘り下げて、立体的にした方がいいのでは。

 例えば京大東大子は、10年間も大学浪人をやっているわけですが、なぜ彼女がそこまで志望校に執着するのか、その理由を描くというのはどうでしょう。あ、ちなみにこれ、真面目な理由である必要は全く無いですヨ。むしろ、人が聞いたら爆笑するような理由だけど本人は大まじめとか、そういうのがイイと思います。
 それと最初はガリ勉だった東大子が、快感を知ったことによって、男に襲いかかる猛烈性欲女に変身するのですが、この変身後のキャラが広島響子とカブっているので、その点もちょっと物足りない。もう少し、なにか欲しいです。演じているのが倖田さんだから、やはりダンス系でしょうか。男に襲いかかる前に、珍妙な「発情ダンス」を踊り狂うとか。人間離れした激しい動きで、観客が笑いながらも怖くなるようなダンス。倖田さんなら、できそうです。続編があれば、ぜひお願いします~。

『美人姉妹で姉は先生』

成人館での公開題:『美脚教師 開いて悶絶』
2010年 日本 監督・脚本:友松直之 出演:横山美雪、しじみ、石井亮、堀本能礼、なかみつせいじ、原口大輔、山口真里
【現在、新宿国際劇場で上映中(10月20日まで)。その他、全国の成人館で順次上映中】

 
 3週間ほど前に、上野オークラ劇場にて鑑賞(個人的な諸事情により、アップするのが遅くなってしまいました)。
 ところで私は、このブログでピンク映画について書くとき、原題(脚本段階での題名)が分かる場合は、公開題ではなく原題をメインタイトルとして書くようにしています。この選択はやや邪道なので、良くないような気もするのですが、公開題というのは、どうも作品の内容とズレているものが多く、その点で違和感や脱力感を禁じえないというか。
 今回も、実際に作品を観てみると、公開題からは想像しづらい「姉妹モノ」でした。

 パソコン教室の講師・淑子(横山美雪)は、恋人の弘志(石井亮)との仲もまあまあ順調で、平穏な日々を送っている。しかしある時から、教室の生徒・沙織(しじみ)が、奔放な態度で淑子の私生活に乱入。実は淑子と沙織は昔、義理の姉妹として過ごした時期があった。それを思い出した淑子は、沙織を受け入れる。
 沙織はタレント志望で、以前パソコン教室の取材に来ていたプロダクションの社長・辻(堀本能礼)に会いに行く。辻にノセられ、コスプレ姿で撮影に応じる沙織。気がつくとヌードに近い状態になっていて、辻にレイプされそうになり逃げ出す。
 その日の夜、淑子の部屋で2人きりになった沙織と弘志は、関係を持つ。帰宅した淑子は、ベッドにいる2人を見て激怒。そういう淑子自身も、教室の熟年生徒・山田(なかみつせいじ)とかなりのところまでイッていたのだが、沙織への怒りは収まらず、こう叫んでしまう。「あたしたちが今度会うのは、どっちかの葬式の時よ!」。すると本当に、その通りになってしまい‥‥。

※以下の文章では、作品の結末部分について、かなり詳しく書いています。

 
 要するに沙織が急死し、その後は死んだはずの沙織が淑子の前に現れ、幽霊ファンタジーのような展開に。そしてラスト、淑子と沙織と弘志による3P(?)のあと、沙織は消え、淑子は弘志に向かって宣言します。沙織は私のここ(子宮)に入った、私はやがて女の子を産む、名前はサオリ、私はその子を溺愛し、その子には私のことを「お姉さん」と呼ばせる‥‥と。
 この部分を観て、夏に公開された某ピンク映画(加藤・城定コンビ作)のラストを連想した人は多いでしょう。私もそのひとり。オチとしては、よく似ているんですよね。しかし! オチ自体は似ていても、意味としてはかなり違うような気がします。

 なぜなら某映画のほうは、最初の基本的な設定からしてバリバリのファンタジー作品なので、ラストで示される転生(生まれ変わり)という概念も、作品世界の中では「実際に起こり得ること」として存在するわけですが。この『美人姉妹~』は、(終盤にファンタジックな味付けがあるとはいえ)あくまでも現実的な設定を基本とした作品なので、その中で転生という概念は、「かなり現実離れしたこと」として存在します。
 つまりラストでの淑子は、「かなり現実離れしたこと」を堂々と真面目に宣言しているわけで。きつい言い方をすれば、彼女は妄執に囚われている。少なくとも私は、そのように受け取りました。

 で、そうなると、「沙織の幽霊」らしきものも、おそらく淑子の妄想。だから淑子と「沙織の幽霊」らしきものの交流は、すべて淑子の願望。沙織とこんな話をしたかった、一緒にこんなことをしてみたかった‥‥という。
 しかしそもそも、沙織のほうはどんな気持ちで死んでいったのか。もしかしたら、淑子の「葬式云々」という発言に絶望したまま、死んでいったのかもしれません。実際、淑子の沙織に対する最後の態度は、その発言も含め、かなり自分勝手な部分が多かったのだし。
 こうなると、片思いですな。姉の、妹に対する片思い。しかも、永遠の。


 最後に念のために書き添えておきますが、この映画、非常にコミカルかつ軽やかなタッチの作品です。じゃあ何でこんな湿っぽい文章になるのかって? や、こういう(湿っぽい)解釈もできるんですよ~。 
 『絶対痴女 奥出し調教』もそうでしたが、友松監督の作品は、複数の解釈が成り立つように作ってある場合が多いみたいで。この『美人姉妹~』に関しても、色んな方の批評・感想を読み比べてみると、面白いと思いますよ。そうするうちに未見の方は、きっと観たくなるでしょう。

『絶対痴女 奥出し調教』

2010年 日本 監督:友松直之 脚本:友松直之、城定秀夫 出演:あいかわ優衣、亜紗美、若林美保、津田篤、藤田浩、如春
(今年の12月頃、上野オークラ劇場などで公開予定)

 10日ほど前に、東映ラボテック試写室にて鑑賞。なおこの作品、諸々の事情により、特に原題は無い模様。もしあるとしたら‥‥『ヤリマン星人』ですな。たぶん。
 さて以前書いたように、私はこの映画の撮影にエキストラとして参加しました。そのため完成した作品に接した時、「自分がどう映っているのか」「あそこはどんな画になっているのか」などと気にしてしまい、冷静に「作品」として観ることはできませんでした。だから、ちゃんとした感想にも批評にもなってないかもしれませんが、現時点で思うこと・考えたことを記しておきます。

 あ、その前に、ストーリーはですね。小劇団の話です。『午後のアブダクティ』という、UFOネタの芝居公演を間近に控えた小劇団。主演女優が体調不良で入院し、急きょ新入りの女優・サオリ(あいかわ優衣)が主演することに。
 サオリはなかなか芝居が達者で、無事に主役を務められそうなので、座長(若林美保)もひとまず安心。なわけですが、実はサオリには、性格というか体質面(?)での問題が‥‥。そう、彼女、ヤリマンなのです! 誰とでも何度でも、ヤる、ヤる、ヤる!
 ついにサオリは、田中(津田篤)、鈴木(如春)、山田(藤田浩)と、劇団内の全ての男性と関係を持ってしまい。もともと、田中は劇団員のアヤカ(亜紗美)と、山田は座長と交際していたため、修羅場になるのは時間の問題。そして何とその修羅場は、公演の本番中に訪れたのでした。
 怒りまくるアヤカと座長、自分の心情を切々と語るサオリ、うろたえながら何やかやと叫ぶ男たち。ついにはサオリとアヤカが、客席に分け入っての壮絶な追っかけっこを展開! とその時、大地震のような揺れが劇場を襲い、劇団員も観客もパニック状態に! そして‥‥。

※以下の文章では、ストーリーの結末近くまで言及しています。が、ラストシーンの詳細は伏せてあります。


 結局、劇団員たちはどこかに瞬間移動(?)していて、そこには彼らしかおらず。しかもサオリは、銀色の奇妙なスーツに身を包んでいて。サオリが告白を始める、「実は私はヤリマン星人で‥‥」。どうやらあの大地震のような揺れは、UFOの着陸によるものだったらしい。彼女は「自分の星へ帰る」と言い、姿を消す。

 とまあ、つまり、劇中劇である『午後のアブダクティ』と、この映画のストーリー自体がUFOネタでリンクしているわけです。しかし私は、さらなるリンクが存在するような気もして。というのもこの映画、サオリが姿を消したあと、最後の最後に、観ていて「?!」となるシーンがあるんですよ(エンドロールのことじゃないですよ、エンドロールの映像も別の意味で「?!」となりますけどね~)。
 詳細を伏せたまま説明すると、要するに。ラストシーンが、「もしかしてサオリはヤリマン星人なんかじゃなく、ただの人間だったのかも」と思わされる内容なんですよ。もちろん、このへんはハッキリとは示されないので、人によって解釈が分かれるでしょう。

 そしてこの「人によって解釈が分かれる」ということが、まさに劇中劇『午後のアブダクティ』とリンクしているんです。というのも『午後の~』では、UFO肯定派と否定派の論争場面がたっぷりあって、主に過去のUFO(が起こしたとされる)事件について、それぞれの解釈で、「あれはUFOのしわざだ」「いや違う」といった具合に、やり合うわけで。
 こういう論争、この映画自体についても、できますよ。「サオリはヤリマン星人なのか、人間なのか」というテーマで。あるいは、「この映画の世界にヤリマン星人は存在するのか、しないのか」。
 例えば映画の中で、「ずっと雨が降らず水不足だったのに、サオリが姿を消したとたん激しい雨が降り出す」という展開があるのですが。これについても、「急に気候が激変するなんて、やっぱりサオリがヤリマン星人だからだ、ヤリマン星人は存在する!」「いや、気候の激変なんてよくあることだ、偶然だ、ヤリマン星人なんていない!」と、対立する2つの解釈が成り立ちますし。
 まあいずれにせよ、この論争をした場合、会話の中に「ヤリマン」という言葉が100回くらい出てくることでしょう。ぜひ聞いてみたいものです。

 なんだか私の勝手な構造分析(?)を、延々と書き連ねてしまいました。そもそも劇中劇のUFO論争は、現実に肯定派と否定派の間で交わされてきたもので、つまりウンチクなわけで。友松監督は、他の作品でも色んなウンチクを披露しているので、今回も単に「ウンチク入れたかった」というだけなのかもしれません。
 でも、監督が意図しないところで何かが発生する、というのも映画にはよくあることなので、私のような受け取り方も許されるかと。

 さて、こんな話だけだとナンなので、まったく別のことにも触れておきます。というか、書いておきたい。津田篤さんのこと!
 『うたかたの日々』評にも書きましたが、やっぱり彼はいい。今回は、そのエロさに改めて魅了されました。といっても彼の場合、いかにもエロいわけではなく、絡みのカット以外では、かなりボ~ッとしていて。いやホント、彼はなかなかのイケメンなのに、「ボ~ッ」とか「ポケ~ッ」というマヌケ系の擬態語が似合います。今回、まさに露骨に「ポケ~ッ」とヒロインに見とれている顔も登場。
 しかしひとたび絡みに入ると、あら不思議、エロい。しかもスイッチが切り替わるようにカチッと変化するのではなく、いつの間にかエロモードになっている。素晴らしい。「津田ガールズ」の皆さんも、彼のこういうところに惹かれているんでしょうか。

『川の字』

(成人映画館での公開タイトルは『潮吹き花嫁の性白書』)
2010年 日本 監督:竹洞哲也 脚本:小松公典、山口大輔 出演:かすみ果穂、倖田李梨、毘舎利敬、岩谷健司、久保田泰也、LUNA、佐藤玄樹
8月27日、上野オークラ&横浜光音座2にて公開

※公開前の作品なので、ネタバレにはかなり気を付けて書いたのですが、ある意味、少しはバレてしまっています。ご了承ください。

 10日ほど前に、新・上野オークラの女性限定イベントにて鑑賞。仲の良い両親のもとで育った若い女性が、恋人との関係に悩みながらも、やがて‥‥というような内容。一応。
 
 この作品、チラシなどでよく「温かい映画」と紹介されていて、確かにそういう面もあるのですが、私にとってはかなり「厳しい映画」です。厳しいことを言っている映画。そういえば以前、同じ竹洞監督の『たぶん』についても、ちょっと似たようなことを書いたなあ
 つまり『たぶん』も『川の字』も、チョコレートでコーティングしたゴ―ヤみたいなんですよ。や、そんな食べ物は無いんでしょうけど、要するに、外側は甘いのに中身は苦い、ということ。そしてこの『川の字』のほうが、より苦味が強い。

 まず、ヒロインの置かれた状況が、実は過酷。彼女はかつて何者かにレイプされたのですが、それだけでなく、他にも非常に辛い経験をしていて。「こんなに色んなことを背負っていると、人によっては精神に異常をきたすのでは?」と思うほど。
 さらに、もうひとりのある登場人物も、とても辛い経験をしています。ちなみにこれらの「辛い経験」は、作品の終盤で明かされる要素なので、ここには書けません。

 そう、この映画では、複数の登場人物のかなり重要な部分が、終盤まで伏せてあるのです(匂わせるような描写はありますが)。そして、いわゆる「意外な事実」として明かされ、観客としては「え、そうだったのか」と思うわけで。
 さて、ここで「え、そうだったのか」と思うのは、もちろん作劇として意図的に伏せられていたからなのですが、それだけでなく、その人物たちがけっこう明るい、ということも関係あると思います。とにかく、いかにも「悲しみを背負ってます!」とか「辛さに耐えてます!」とか、そういう感じがほとんど無いんですよ。例えばヒロインの場合、レイプによる精神的後遺症は多少あるものの、彼女が抱えていることの全体的な重さの割には、背筋が伸びているというか。

 この「背筋が伸びている」感じが、個人的には印象深いです。最初に書いた「厳しい」というのも、このこと。人に対して厳しい、というか。「辛くても、どうにかしなけりゃ、どうにもならないんだよ」と映画が言っているような。
 まあ、もしかしたら、その人物たちが明るかったり背筋が伸びていたりするのも、「意外な事実」をより意外に見せるための作劇なのかもしれませんが‥‥って、多分そんなことは無い。それだけではない。作り手の人生観の表れ、という側面もやはりあると思います。

 では、作り手の1人である脚本家・小松氏によるこの映画の誕生秘話を、どうぞ→http://blog.goo.ne.jp/konde-koman/e/3a2f3f2e4d76434dcc0f31333d9f8420

『うたかたの日々』

(成人館での公開タイトルは『壷姫ソープ ぬる肌で裏責め』)
2009年 監督:加藤義一 脚本:城定秀夫 出演:津田篤、持田茜、藍山みなみ、THUNDER杉山、岡田智宏、合沢萌、サーモン鮭山

 3か月ほど前にポレポレ東中野で観て、記事を書き始めたものの、急に忙しくなり挫折。そして時間に余裕ができた頃には、作品の記憶が薄れていて、また挫折。もうこのまま書けないかと思っていたのですが、10日ほど前に目黒シネマで再び観ることができました。
 この作品、大まかなストーリーはシンプルかつオーソドックスなので、単なる「他愛のない映画」と感じる方もいるかもしれません。しかし私にとっては、なんというか、「幅のある映画」。おそらく作り手の方たちの意図とはまた別のところで、自分なりにいろいろ解釈して味わうことができました。 
 以前記事にした、同じく加藤・城定コンビによる『ヒロ子とヒロシ』の場合は、細部の作りが雑な気がして、あまり作品に入り込めなかったのですが、この『うたかた~』は細部が興味深く、そこから色んな解釈が広がったというわけです。

※以下の文章では、ストーリーの結末に触れています。

 柳 潤二(津田篤)は、売れないエロ漫画家。ある日、せっかく手にした原稿料を1日で使い切ってしまい、同棲相手の麻理子(藍山みなみ)に追い出され、偶然再会した高校の同級生・知美(持田茜)の部屋に転がり込む。知美は、潤二の初体験の相手だった。
 今はソープ嬢をしている知美と、彼女のヒモ的存在となった潤二。ふたりは惹かれあい楽しい時を過ごすが、そんなふたりの前に突然、高校時代の教師・内山(THUNDER杉山)が現れる。実は知美は在学中から、既婚者である内山と交際して妊娠・中絶し、その後彼のもとを去ったのだった。そして内山は知美のことを諦めきれず、妻と離婚して知美に会いに来たのだ。
 結局、知美は内山のところへ戻ることになり、潤二は麻理子のところへ戻っていく。

 さてタイトルの『うたかたの日々』とは、どの日々を指しているのでしょうか。普通に考えれば、「潤二と知美が過ごした日々」ですよね。
 高校時代の思い出も、「ソープ嬢とヒモ」の生活も、はかない夢のようなもの。潤二にとって、麻理子との日々こそが確かな現実。2人の女性の人物像も、知美は華奢でミステリアス、麻理子は肉感的でシッカリ者‥‥と、それぞれが「夢」と「現実」にふさわしい。
 ところが、ですね。私には、潤二と麻理子の日々も、「うたかたの日々」に見えるのですよ。

 その原因は、潤二と麻理子が住んでいる部屋のシーンの撮り方、にあるような。
まず、常にだいたい同じ方向から撮影されている。かなり広い部屋なので、色んな風に撮れそうなのに、なぜか「手前に潤二の低い机、奥にベッド」というパターンが多い。映画の冒頭からラストまで、この部屋のシーンは何回も出てきて、その都度状況は違っているのに、いつも似たような構図で映っていて。だから他のシーンに比べると、やや舞台劇っぽいというか不自然というか。
 しかも、この部屋の外側を描写したカット(玄関ドアの外側や建物の外観などのカット)が出てこないので、部屋の実在感が薄い。なんかこう、抽象的な空間に見えるのです。
 
 もちろんそれらは、撮影や編集の都合上たまたまそうなっただけ、なのかもしれません。また仮に監督の演出だったとしても、私が思うのとは別の意図に基づいている可能性も充分あります。しかしまあ、それはそれ。映画というのは結局、観た側が勝手にいろいろ感じてしまうものですから。
 とにかく私には、潤二と麻理子の生活空間が、やや虚構っぽいものに見えるのです。だからラストシーンで、潤二が麻理子と暮らす部屋へ帰ってきても、日常や現実に着地したとは、あまり感じられない。彼は「うたかたの日々」と決別して帰ってきたけれど、これから始まる生活も、また別の「うたかた」なんじゃないか。そんな印象を受けます。

 その印象も含め、色んな意味で、この映画は物悲しい。
 例えば知美のほうも結局、内山のところへ戻ることになるわけですが、これ、「やっぱり彼が好き」とかそういうことではなく。いや、まあ、それもあるんでしょうが、この内山という男、かなり自分勝手で子供っぽい男として描かれているため、知美は何だか保護者のよう。彼があまりにも自分を必要としているので、自分よりはるかに年上である彼の保護者として生きていく‥‥そんな悲壮感のようなものも感じられます。
 もちろんこの辺も、人によって色んな解釈があるはず。全体的に、観た人がそれぞれ思いを巡らすことのできる映画。

 ところで、4月にチラッとこの映画に言及したとき、「主演の津田篤さんがよかった」と書いたわけですが、具体的にどういうことかというと。
 この潤二という役は、基本的にだらしなくてボーッとしているのに、実に物分かりがいい時もあるという、アホなのか賢いのか分からないような役。それを矛盾ではなく魅力として、津田氏がさりげなく演じていたので好感を持ったというわけです。
 
 さらに、持田茜についても書いておきましょう。彼女、演技以前にまず顔立ちがイイ。この役にぴったり。ああいう、目がやや離れ気味の顔というのは、幼さとエロさが同居していて、妙に人を(特に男性を)惹きつけるものがある。昔から、アイドル歌手などにもこの手の顔はけっこう多いです。
 もちろん、顔だけじゃなく演技もよかったですよ。例えば彼女の演じた知美は、潤二のことを場合によって、「柳くん」と呼んだり「あんた」と呼んだりするのですが。この、いかにも同級生っぽい呼び方と情婦のような呼び方の両方がサラッとできる小悪魔ちっく(?)な雰囲気、彼女は的確に体現していました。
 
 余談ですが、持田茜は現在「しじみ」という芸名で活動してまして。私はこの芸名を初めて知った頃、どうしても、『わたしはしじみ!』(昔のギャグマンガ・主人公がブサイク)を連想してしまい、ちょっと困ったんですが、最近はもうあまり連想しなくなりました。あ~、よかった。

『たぶん』

(成人映画館での公開タイトルは『いとこ白書 うずく淫乱熱』)
2009年 日本 監督:竹洞哲也 脚本:小松公典、山口大輔 出演:赤西涼、かすみ果穂、倖田李梨、吉岡睦雄、岡田智宏、久保田泰也、サーモン鮭山、なかみつせいじ

 4日前に、ポレポレ東中野での特集上映「R18 LOVE CINEMA SHOWCASE vol.7」にて鑑賞。
 以前、雑誌やネットでこの作品について、「青春映画」「さわやかな作品」と書かれているのを何度か目にし、そういうイメージを持っていたのですが、実際に観てみると、かなり違った印象を受けました。なんというか、「一見、青春を描いているようで、実は“青春の後”を描いている映画」。そして、「一見さわやかなようで、実は底の方に悲しいものが流れている映画」。

 しかし、それは単なる私の思い過ごしなのかもしれません。というのも、劇中のいくつかの台詞が、かつて自分の身近な人が発した印象的な言葉とソックリだったりして、観ている最中に、やや動揺しながら実人生のあれこれに思いを馳せてしまったので、作品を正確に把握していないというか、自分に引きつけて脳内変換している可能性があるのです。
 だから本当は、もう一度観てから書きたい。でもしばらくその機会は無さそうなので、いちおう記録として、現時点で考えたことを書いておきます。
 またそういうわけで、以下に記した台詞なども、細かい部分が正確でないかもしれません。ご了承ください。

 仲の良いイトコ同士で、二十歳前後のさくら(赤西涼)ともみじ(かすみ果穂)。彼女たちが、恋やセックスに悩み、揺れる。短く要約すると、そういうストーリー。もちろん主人公は、その2人の女の子です。
 しかし私の心に強く残ったのは、前半にしか登場しない昌美(倖田李梨)。「さくらの高校時代の恩師で、良き相談相手」という設定なのですが、とにかくこの30代と思しき昌美さんの台詞、いちいちグッときました。

 例えば彼女が、こんな風なことを言います。「大人になったら何でもテキパキ決断できるようになると思っていたのに、大人になるにつれて、決断できないことが増えてしまった」。
 これ、私がトシくってから常に痛感していることでもあり、数年前に私の故郷の友人が、非常にしみじみした口調で語った言葉でもあります。ちょっとビックリしました。
 
 それと、こちらは身近な誰かが言ったとかではなく、映画の台詞として、とてもいいな~と思ったもの。辞職&結婚を後悔し迷っているらしい昌美と、さくらとの会話。
 さくら「離婚すれば?」 
 昌美「する理由が無い」 
 さくら「理由を探せば?」 
 昌美「見つける自信が無い」
 この場合は「離婚」ですけど、逆に「結婚」でも、あるいは「転職」でも「上京」でも、いろいろ応用可能というか。とにかく、もう若くはない人間が何かに踏み出したいけど踏み出せない、そんな臆病でもあり慎重でもあるようなグジャグジャした気持ちを、短い言葉で的確に表現した、味わい深い台詞だと思います。

 そしてこの昌美という人物、前半にはけっこう登場するものの、(さきほど述べたように)後半には登場しません。彼女の迷いがその後どうなったのかも、描かれません。まあ、あくまでも若い子たちがメインなわけで、昌美の描き方に特別な意味など無いのかもしれませんが、それでも私は、勝手に意味付けしてみました。
 つまり最終的に、昌美がさくらに乗り移った。というか、さくらが昌美になったんじゃないかと。

※以下の文章では、作品の結末に少し触れています。

 序盤から中盤にかけて、若いさくらは昌美の言動にあまり納得できず、「たぶん」という言葉に象徴される、大人たちのハッキリ言いきらない感じやグジャグジャした感じに、違和感を抱いています。
 しかし終盤での、少し歳をとったさくらは、「たぶん」的なものを身につけ始めている(ように見える)。そしてそういう点で、「さくらが昌美になった」。

 これは私の妄想ですが‥‥きっと、そんなさくらに接した若い子は、かつてさくらが大人に抱いたような違和感を抱き、それでもやがて歳をとって、自分自身が「たぶん」的なものを身につけてしまい、そしてさらに若い子が‥‥と、同じことが永遠に繰り返されていくのでしょう。
 この映画、富士山麓の小さな町が舞台になっていて、全編(終盤も)現地で撮影されているので、よけいにそういう、「狭い場所で延々と同じことが繰り返されていきそうな感」が強い。

 ラストの、さくらともみじが仲良く自転車で駆け抜けていく姿と、そこに流れる楽しげな主題歌。これは、「さわやかで前向きなラストシーン」なのかもしれません。
 しかし私には、「過ぎてしまえば二度と戻らない“非・たぶん”な頃への鎮魂歌」のように思えてきて、一瞬、胸が詰まりました。

『罪 tsumi』

(成人映画館での公開タイトルは『獣の交わり 天使とやる』)
2009年 日本 監督:いまおかしんじ 脚本:港岳彦 出演:尾関伸嗣、吉沢美憂、伊藤清美、山崎康之、吉岡睦雄、古澤裕介、小鳥遊恋、及川ゆみり、守屋文雄、松原正隆、川瀬陽太、ローランド・ドメー二グ 
DVDレンタルあり(セル版は3月5日発売予定)

 5日ほど前にDVDで鑑賞。第4回ピンク映画シナリオ募集入選作『イサク』の映画化作品。成人館で公開された際のタイトルは『獣の交わり 天使とやる』で、DVD化にあたり『罪 tsumi』と改題されました。(なお、この『罪 tsumi』は「R15」となっているので、『獣の~』よりも性的なシーンが少し短いバージョンなのかもしれませんが、私は『獣の~』を観ていないので比較はできません。あしからず。)

 『イサク』を書いた港岳彦氏は、脚本のほかに映画評なども手がけている方。私は数年前に港氏の文章をどこかで目にして以来、彼のブログを読んでいます。で、読み続けていくうちに分かったのですが、どうやら彼は、クリスチャンではないのにキリスト教を自らの重要なテーマとして捉え、勉強してらっしゃるようなのです。
 私は信仰心の無い人間なので、バリバリのクリスチャンがキリスト教をテーマにして作った映画や小説には距離を感じてしまうのですが、作者がクリスチャンではないとなると、話は別。逆に興味を感じます。これは多分、「キリスト教に対して否定的だが、とある経験から否定しきれないでいる」という、私自身の中途半端なスタンスが影響しているのでしょう。
 そんなわけで、港氏がキリスト教をテーマにして書いた『イサク』を、いまおかしんじ監督(キリスト教とはほぼ無縁で、この脚本のテーマよりも設定に惹かれたらしい)が演出した『獣の交わり 天使とやる』、ぜひ観たいと思いながら劇場では観られず、今回DVDで初対面。

 観ていちばん感じたのは、少し抽象的すぎるのではないか、ということ。
 たしかにこの映画、難解になりがちなテーマをドラマティックな設定で分かりやすく描いているし、いまおか監督の持ち味である、深刻さの中に絶妙なマヌケさを混入させる演出も効いています。しかし全体としてやや抽象的で、私のような信仰心の無い観客には、今ひとつ響いてこないというか。
 原因は、晴彦という登場人物の描き方にあるような気がします。

 伊作(尾関伸嗣)は、売られたケンカで晴彦(山崎康之)を殴って植物状態にしてしまい、故郷を離れていたが、5年ぶりに帰郷。「会いなさい、会って癒しなさい」というキリストらしき者の不思議な声に導かれたのだ。伊作は晴彦に会おうとして、彼の母・佳子(伊藤清美)からも姉・果穂(吉沢美憂)からも拒絶される。ただ、クリスチャンである果穂は、実は伊作の言動を気にしていた。
 そんなある日、晴彦の兄貴分で果穂に思いを寄せるチンピラヤクザの秀樹(吉岡睦雄)が、伊作を刺す。その事件をきっかけに、伊作と果穂は親しく言葉を交わすようになるのだが‥‥。

 このあらすじだけでもお分かりの通り、晴彦は、すべての発端。ベッドで眠っているシーンがほとんどなので、絵的には目立たないものの、実はさまざまな出来事や人間関係の軸になる人物なのです。ところが、彼が具体的にどんな人物なのか、ほとんど描かれていない。
 映画の中で描かれたり語られたりしているのは、植物状態になった時点で17歳だったことと、子供の頃は母が多忙で姉の果穂に面倒を見てもらっていたこと。また、いわゆる不良少年だったらしいこと。
 これだけでは、晴彦の人柄や人間性は見えてきません。つまり彼の存在自体が、記号的・抽象的なのです。だから、果穂や佳子など他の登場人物の晴彦に対する感情も、伊作の罪も贖罪も、伊作がクライマックスで語る「赦し」も、すべてが抽象的。つかみどころが無い、というか。

 やはり、植物状態になる前の晴彦がどんな少年だったのかを、ほんの少しでいいから具体的に描いてほしかった。例えば佳子と果穂が、晴彦の口癖やよく着ていた服についてチラッと語るとか。あるいは晴彦が眠り続けている部屋に、彼が旅行で訪れて気に入っていた観光地の写真が貼ってあるとか。
 些細なことでいいのです。それがあれば、映画全体の具体性が増したんじゃないでしょうか。

※以下の文章では、作品の結末に触れています。

 そしてこの映画のラストは、抽象的云々ということだけでなく、さらにいくつかの理由によって、信仰心の無い観客には、やや付いていきづらいものになっています。まず、メインの登場人物のうち3人もが、信仰の世界に行くということ。伊作は神の声に導かれた末に、自らが神のような存在になったし、果穂は一度捨てた信仰を取り戻したし、佳子は信仰に目覚めたようだし。それと、信仰に対してハッキリと否定的・懐疑的な人物は、最後まで1人も出てこないんですよね。
 結果的にこの映画、キリスト教を全面的に肯定しているように見えなくもない(作り手の方たちにその意図があったかどうかは別として)。だから、キリスト教に対して少しでも疑問や否定的感情を持っている観客は、やや困惑するのではないでしょうか。少なくとも私は、そうでした。

 最後に。批判的なことをダラダラと書き連ねましたが、これは観た後で色んなことを語りたくなる映画です。台詞も映像も、妙に頭の中に残るし。そういう意味で、面白い作品だと思います。
 DVDのパッケージは、女性でも手に取りやすいキレイ系のデザインになっているので、男女問わず、興味のある方はご覧になってみてください。あ、もちろん劇場で観る機会があれば、その方がいいでしょう。春には、ピンク関係のイベントや特集上映が一般館であるようだし、その際に上映されるかもしれません。

※追記‥‥上映が決まりました。詳しくは、こちらをどうぞ

『恋味うどん』

(成人館での公開タイトルは『悩殺若女将 色っぽい腰つき』)
2006年 日本 監督:竹洞哲也 脚本:小松公典 出演:吉沢明歩、なかみつせいじ、柳東史、倖田李梨、青山えりな、岡田智宏、松浦祐也、サーモン鮭山

 先週、イメージフォーラムのピンク特集にて鑑賞。竹洞・小松コンビの作品ということで期待して観たものの、残念ながら私にとっては今ひとつグッと来ない作品でした。
 いちばん気になったのは、うどんの扱い方。この映画では「うどん」は単なる食べ物ではなく、ひとりの登場人物と言ってもいいほど重要な存在なのに、それにふさわしい扱いがされていない。といっても、例のエロ夢シーン(うどんをアソコに載せて食べる)のことではないですよ。
 
 いつも男に貢いでは騙されている花子(吉沢明歩)。またしても交際相手(サーモン鮭山)に全財産を貢いだ直後、逃げられてしまう。お腹をすかせて街をさまよう花子に、うどん屋の店主・一義(なかみつせいじ)が、うどんをタダで食べさせてくれた。花子は一義の店で働き始め、店員の礼(松浦祐也)や常連客たちにも温かく受け入れられる。
 そんな折、常連客のひとりで一義の幼なじみでもある隆(柳東史)が、親から引き継いだ書店の経営に行き詰まり、再出発のため妻(倖田李梨)とともに街を去っていく。一義は淋しさから、花子に初めて身の上話をする。離婚後、男手ひとつで育てあげた娘・幸(青山えりな)の話。自分が子離れできず結婚に反対したため、幸は料理人の憲二(岡田智宏)と駆け落ちし、絶縁状態になっているという。
 花子は一義の作ったうどんを持って、幸を訪ねる。うどんを食べる幸と憲二。これがきっかけで父娘は和解。幸が夫と子供を連れて、戻ってくることになった。そして花子は‥‥。

 つまりこの映画では一義のうどんが、人と人とを結びつける重要な存在になっているわけで。花子と一義、一義と常連客たち、そして一義と幸とその家族。皆、うどんが結びつけた。きっと一義の作るうどんには、彼の思いが込められているのでしょう。「心のこもった料理」とは、まさにこのこと。だからこそ、クライマックス部分(上記のあらすじの続き)には疑問を感じます。

※以下の文章では、作品の終盤(結末まで)に触れています。

 その部分を要約すると‥‥花子、深夜の厨房に立ち、うどんを茹でようとしている→花子、やってきた一義に「うどんを一から作ってみたいんです」と言う→一義、自分が厨房に立って作る→2人、店のテーブルで、できあがったうどんを前に語り合う→一義、不器用な言葉で愛の告白をしたあと、「それ食ったらもう寝ろ!」と言いながら奥の部屋へ入ろうとする→花子、一義に抱きつく→2人、そのまま部屋でセックス。
 
 あの~~、うどんはどうなったんですか? 放置、ですよね? ここで急に、うどんの影が薄くなってしまったじゃないですか! ちゃんとうどんを食べ終わるところまで描写して、それからセックスシーンに行った方が絶対いいですよ。
 とゆうか、そもそも何で「花子が自分で最後まで作る」という展開にしなかったのかなあ。そうすれば、花子の作った素うどんを一義が食べるシーンとして、以下のようなセリフのやり取りができるのに。「あのー、味、どうですか?」「んー、ちょっとつゆが濃すぎるけど、ま、これはこれでけっこう美味いんじゃねえの?」「ワー、良かったー嬉しいー」。これがホントの『恋味(濃い味)うどん』。単なるダジャレと言われれば、それまでですが。

 さらに、その後の結末部分も、やや疑問。一旦うどん屋から去った花子が結局また戻ってくる、という流れなのですが。これ単純に、去るなら去る、居るなら居る、どちらかにした方がいいんじゃないでしょうか。
 もちろん、花子の気持ちの揺れは推測できます。家族の生活を邪魔しないようにと去ったものの、やはり一義が恋しくなったんだろう、と。でも、こういうオーソドックスな人情話を軸にした作品で、ラストに揺れがあると、「着地がビシッと決まっていない」という印象を受けます。例えば何か複雑な問題を描いた作品なら揺れのある結末も効果的ですが、人情モノの場合、シンプルにストンと着地した方がいいのでは?

 もうひとつ、気になったことがあります。隆の人物像。彼は「バイトをしている」と言いながら実はしていなかったり、妻からお金の話をされると逆ギレしてレイプのようなセックスをしたりと、やや言動に問題アリ。それなのに妻や一義たちから当然のように好かれているというのが、ちょっと不可解でした。
 
 おそらくこれは、隆を演じている柳東史の容姿も影響しているのではないかと。柳氏はとてもスタイルが良く顔立ちも端整で、つまり一般に言うところの「かっこいい」容姿の持ち主。そんな彼が上記のような隆の言動を演じると、なんというか、かなり軽薄な感じに見えてしまうのです。
 逆に、いかにもイケてない系の男優だったら、あまりそういう風には見えないでしょう。キャスティングの経緯は分かりませんが、もし柳氏が最初から決まっていたのなら、隆の人物像を、もう少しお人好しとか要領が悪いとか、そういう方向に造形するべきだったと思います。

 なお、劇場でこの映画を特集したPGが販売されていて、観た後に買おうかと思っていたのですが、その時には売り切れか何かで無くなっていたので、結局買っていません。よって関係者のインタビューやシナリオなどの資料を読まずに、この文章を書きました。資料を読めば分かることを分かってないマヌケな文章になっているかもしれませんが、そういうわけなので、ご了承ください。

※追記‥‥1週間後に、この記事の補足のようなものをアップしました。こちらです。

『キャラバン野郎 7』

(成人館での公開タイトルは『飯場で感じる女の性』)
2000年 日本 監督・出演:荒木太郎 脚本:内藤忠司 出演:林由美香、鈴木あや、久須美欽一、小林節彦、丘尚輝、時任歩

 先週、イメージフォーラムのピンク特集にて鑑賞。荒木太郎監督の作品を観るのは、これが初めて。(池島監督の時と同じ言い訳をまた書きますが)荒木監督作品は一般館でほとんど上映されず、ソフトもあまり出回っていないため、♀にとっては観る機会が少ないのです。
 
 この『キャラバン野郎』シリーズは、荒木氏の監督・主演による連作。主人公の真二(荒木氏)も彼の元恋人・花枝(林由美香)も、それぞれにさすらいの旅を続けている‥‥というのがシリーズ全体を貫く基本設定のようです。で、当然ながら私は今回、真二というキャラクターを初めてスクリーンで観たわけですが、まず思ったことは、「東海林太郎みたい」。

 少し解説しておくと、東海林(しょうじ)太郎というのは昭和初期から中期にかけて活躍した歌手で、黒縁メガネをかけ直立不動で歌う姿が有名。といっても、もちろん私はリアルタイムで彼の活躍に接した世代ではなく、子供の頃に身内の年配者たちが、メガネをかけた姿勢のいい男性を見かけるたびに「東海林太郎みたいやな」と言っていて、それが刷り込まれているのです。
 この映画の真二はメガネをかけているうえ奇妙に姿勢が良く、例えば疲労と空腹で倒れるときも、直立姿勢のまま前方にまっすぐバタンキュー。おまけに演じている荒木氏の名前が「太郎」。こうなると、どうしても東海林太郎を連想してしまうわけで。
 
 しかもこの映画自体、設定はおそらく現代のはずなのに、昭和初期から中期ごろを思わせる要素が多いのです。まず真二は今時なぜか白黒ショーの巡業をしているし、そのショーの際には『天然の美』(チンドン屋さんの定番曲)を流しているし。
 さらに花枝の使う言葉が妙に古いというか。例えば彼女は、飯場の男たちとヤリまくるレイカ(鈴木あや)に向かって、「ここは女郎屋じゃないのよ!」と言ったりします。

※以下の文章では、作品の結末に軽く触れています。

 さて前の段落で「設定はおそらく現代のはず」と書きましたが、これはひとえにレイカのキャラクターからの推測。
 彼女、最初は真二の白黒ショーの相手役を務めていたものの、ちゃっかり金を持ち逃げし、でも一応反省して謝罪しようと、真二が居そうな場所(花枝が飯盛り女として働いている飯場)にやってきます。しかし既に真二は旅立ったあと。するとレイカ、男たちに交じって工事現場で肉体労働を始めるのですが、しだいに別の意味での肉体労働にいそしむようになり。そんな彼女の口癖は、「ってゆうか~」と「レイカ的には~」。
 そう、彼女、かなりギャルっぽい。しかし後半のあるシーンで、意外な面が明らかになります。どうやらセックスに関して辛い過去があるらしく、「男なんてみんなヤルことしか考えてない!」「あたし1度もセックスでイッたこと無い!」と号泣。ちょっとしんみり(でも結局はまた嬉しそうに男に向かっていくのであった)。
 
 意外といえば、花枝にも少々意外な面が。彼女、基本的にはしっかり者かつ働き者。「この職場では禁欲する」と公言し、セクハラしてくる男たちを軽くいなしながら、テキパキと仕事をこなします。しかしレイカの誘惑には負けてしまい、レズ行為にどっぷりハマることに(でも結局はレイカと別れるのであった)。
  
 アッケラカンとしたギャルにも少しだけ暗い部分があり、それでもやっぱりアッケラカンとしている。しっかりした姉さんキャラにも少しだけ脆い(いい加減な?)部分があり、それでもやっぱりしっかりしている。この人物造形の微妙さ、なかなか秀逸だと思います。ずっと同じ性質であり続けるのでもなく、途中から別人のように変わるのでもなく、かすかに揺れ動いているような描き方が、人物に奥行きを与えているというか。

 不思議なレトロ趣味も面白かったし、人物造形にも好感が持てたので、荒木監督&内藤忠司(脚本)コンビによる他の作品も、機会があればぜひ観てみたいです。ちなみに、これはかなり知られた話ですが、内藤氏はかつて大林宣彦監督のもとで助監督をしていた方で、『さびしんぼう』などの脚本にも参加しています。
プロフィール

サイボク

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
twitter.com/saiboku_ya

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