『生き残るための3つの取引』

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2010年  韓国  監督:リュ・スンワン  脚本:パク・フンジョン  出演:ファン・ジョンミン、リュ・スンボム、ユ・へジン、チョン・ホジン、マ・ドンソク、チョン・マンシク ほか

 数日前に、キネカ大森の韓国映画特集にて鑑賞。
 警察や検察の腐敗を題材にしていて、しかも結末にほとんど救いが無い作品。にもかかわらず、意外にそれほど暗くないというか、カラッと乾いた感触も残っています。

 なぜなのか、と考えてみると。
 まず、重め・暗めの内容でありながら、観ていて「ププッ」と吹き出してしまうような、「小さく笑える描写」が適度に入れてある、ということ。

 もうひとつは、主演2人のキャスティング&演技。
 ファン・ジョンミンとリュ・スンボムという、(おそらく)もともと明るさや軽快さを持った俳優が選ばれている。そして彼ら自身も、深刻になり過ぎない芝居をしている。

 ストーリー的には、ジョンミン演じる刑事は悲しい悪人であり、スンボム演じる検事はムカつく嫌な奴なんですが。キャスティングや演技によって、ふたり(刑事と検事)に、「滑稽さ」がかなり加わっているような気がします。

 ところで、今回のスンボムのイラストについて。
 彼、特にこういう表情の時は、吉岡睦雄に似てると思います。この手の顔って、見てると何となく描きたくなる。吉岡さんも、いつか描きます。

『ドラッグ・ウォー 毒戦』

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2012年  香港・中国  監督:ジョニー・トー  脚本:ワイ・ガーファイ、ヤウ・ナイホイ、リケール・チャン、ユ・スィ  出演:ルイス・クー、スン・ホンレイ、クリスタル・ホァン、ウォレス・チョン、ラム・シュー、ラム・ガートン ほか
公式サイト→http://www.alcine-terran.com/drugwar/

 蟹江敬三さんが亡くなったので、蟹江さんの追悼記事も書きたいのですが、数日前からこの『毒戦』記事の準備をしていたので、とりあえずこちらを先に仕上げてアップしておきます。

 さて『毒戦』、実は観てからもうかなり日が経っています。全国的に、公開が終了したところも多いし。
 でも現時点で、地方ではまだ上映中のところもあるし、都内でも5月下旬にまた上映されるそうなので(下高井戸シネマ)、記事にしようかな、と。

 それにこの映画、日が経っても、けっこう印象に残ってるんですよ。まあジョニー・トーなので、ガン・アクションが派手でかっこいいとか色々あるんですが、とにかくスン・ホンレイ演じるジャン警部のキャラや捜査方法が独特で、魅了されました。
 キャラや捜査方法が独特といえば、やはりジョニー・トーの『MAD探偵 7人の容疑者』や『名探偵ゴッド・アイ』の主人公たちもそうでしたが、今回はまた別の独特さ。

 まずキャラに関して。例えば、ある銃撃戦での、ジャン警部の弾のよけ方。ちょっとビックリしました。車のアレをああいう風に使うとは‥‥。
 (未見の方は、何のことやらさっぱり分からないと思いますが、もし気になるようだったら、ぜひ作品を観てみてください。)

 そして捜査方法。麻薬組織の捜査をするにあたり、彼は、組織内の実在の人物(しかも複数)になりきって、潜入捜査します。「そんなこと、できるんかいな?!」と言われそうですが、色々あって、できるんです。
 こういうコメディ映画のギャグみたいなことを、(いちおう)シリアスな映画の中でやってしまうジョニー・トー、やっぱり面白いなあ。
 や、もちろん、この『毒戦』をコメディとして観る人がいたって、全然かまわないんですけどね。私自身も、ややコメディとして観たような気がするし。

 あと、個人的にツボにハマったのが、主役2人のキャスティング。捜査される側(麻薬組織の人間)を演じたルイス・クーと、捜査する側を演じたスン・ホンレイ。
 いいコンビです。
 
 このふたり、『強奪のトライアングル』でも共演していて、そのときも今回も、ひとまわりくらい歳が離れているように見えるんですが、実は同い年です。1970年生まれ。
 そしてふたりとも、経歴がちょっと異色。

 まずルイクーは、もとヤクザ。昔、谷垣健治さんがこの本の中で書いていました。
 谷垣さんによると、ルイクーは「まったく気どりがなくていいヤツ」、そして「あなどれない男」。なぜ「あなどれない」のかというと。事件や抗争の多いマカオでロケしたときでも、まったくビビることなく、ひとりでフラッとどこかに出かけたりしてたんだとか。
 なんか、かっちょいいなあ。

 で、ホンレイは、もとダンサー。日本でいえば「新劇出身の地味な演技派」みたいな顔をしているのに。意外ですよね~。ブレイクダンスのチームに所属していたそうです。
 たしかにYou Tubeで彼の動画をいろいろ見ていると、撮影の合間やイベントの時など、実にさりげなく踊っています。クルッとターンしたり、ブレイクダンス風の動きをしたり。
 これまた、かっちょいいなあ。

 ちなみにこのふたり、けっこう仲がいい、と聞いたことがあります。

『裏切りのサーカス』

2011年 イギリス・フランス・ドイツ 監督:トーマス・アルフレッドソン 脚本:ブリジット・オコナー、ピーター・ストローハン 出演:ゲイリー・オールドマン、コリン・ファース、マーク・ストロング、ベネディクト・カンバーバッチ、トム・ハーディ、キアラン・ハインズ、トビー・ジョーンズ、デヴィッド・デンシック、ジョン・ハート
公式サイト→http://uragiri.gaga.ne.jp/

 今年の4月末に劇場(TOHOシネマズ シャンテ)で鑑賞し、さらに先日DVDで再鑑賞。ひとことで言うと、大好きな映画。

 ただし最初に観た時は、ストーリーの細部に、やや分かりづらいところがありました(それでも充分面白かったけど)。その後、原作の『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ジョン・ル・カレ著)を読んでみると、噂どおり長くて複雑な小説で。
 つまり、そういう小説を約2時間の映画にしたわけだから、かなり省略したというか、凝縮したというか。結果的に、やや説明不足になったのかもしれません。
 しかし、その凝縮の仕方が効いている。

 原作はジャンルで言えばスパイ小説で、あらすじは、「英国諜報部(通称“サーカス”)の中にいるソ連のスパイを探し出す」というもの。映画のあらすじも同じ。
 だからこの映画もよく「スパイ映画」と呼ばれていて、たしかにそうなんですが、でも私はあえて言いたい。「これ、ゲイ映画ですよ」と。

 や、ゲイ映画といっても、男性同士のセックス・シーンはありません。しかしこの映画、結局のところ、ある2人の男性の関係が軸になっていて、しかも、その関係が友情ではなく恋愛だと匂わせるシーンがあるのです。
 そしてそのシーンは、終盤だし感情的にグワーッと盛り上がるところ。クライマックス・シーンと言ってもいいでしょう。

 この「2人の男性の関係」は、原作でも、ある程度メインの要素として描かれてはいるのですが、映画では、さらに強調され拡大された感があります。実際、先ほど述べたシーンは原作には無いし、その次のシーン(2人の関係の結末をハッキリと描いている)も、原作には無い、映画オリジナルのものです。
 つまり映画化するにあたって、原作にある色々な要素の中から、その「2人の関係」を最大の要素として選び、それを軸にして作品全体を再構築したのでしょう。その流れで他の要素、例えばスパイの手口やスパイを探す過程などは、あえて省略気味に描いたんじゃないかと。

 長く複雑な原作を映画化する場合、すべての要素を少しずつ短くしたのでは、どの要素も中途半端になり、全体的に薄味な感じになってしまいます。この映画のように、ある要素を強調・拡大して他の要素は短く、という思い切った改変が、やはり効果的なのでしょう。

 以上、おもに脚本(脚色)について書きましたが、この映画、演出・演技・音楽なども本当に素晴らしいです。
 音楽は特に、歌の使い方が上手い。例えば先述の(同性愛を匂わせる)シーンでも、ある有名な歌が流れていて、それがラストまで、いくつものシーンにわたって流れ続けるのですが、これがもの凄く情感豊かに作品を彩っていて。もう、思い出しただけでグッときます。
 あと構図とか色調とか映像の質感とか、とにかくイイし好きですね。私のツボにハマりました。

 最後に、役者さんではコリン・ファースが印象的。実はこの映画を観るまでは、彼に全く魅力を感じてなかったんですが、観たあと「コリンさんスイマセンでした!」と心の中で謝りました。それくらい良かった。なんか妙なフェロモンがモワッと出てましたよ、彼。
 さらにゲイリー・オールドマンは、大昔にファンだったけどその後ちょっと嫌いになって、でも今回見直した! とか、ベネディクト・カンバーバッチはかなり気に入った! とか、色々あるけど、このへんでやめときます。

『息もできない』

2008年 韓国 監督・脚本・出演:ヤン・イクチュン 出演:キム・コッピ、イ・ファン、チョン・マンシク、ユン・スンフン、キム・ヒス、パク・チョンスン
シネマライズ(東京)にて上映中、他の地域でも上映予定多数あり  
公式サイト→http://www.bitters.co.jp/ikimodekinai/index.html
 

2週間ほど前、シネマライズにて鑑賞。もともとは俳優であるヤン・イクチュンが、製作・監督・脚本・編集・主演の5役をこなして創りあげた長編監督デビュー作。
彼自身の辛い経験(生い立ち)をもとにした内容でありながら、自己愛や自己憐憫が前面に出ることもなく、深刻な中にユーモラスな要素も入った秀逸な映画なのですが、私にとっては、どうも今ひとつグッときませんでした。その原因は、メインの登場人物2人の造形にあるような気が。

取り立て屋のサンフンと、女子高生のヨ二。2人とも、暗く荒れた家庭で育った。
サンフンの父は、母に暴力をふるい続け、それがもとで母と妹は死亡。ヨ二の父はベトナム戦争の帰還兵で、精神的な後遺症があり、被害妄想による暴言が絶えない(「ヨ二が自分を殺そうとしている」など)。母はすでに死去。暴力的な弟がいる。

似た環境で生きてきたせいか、恋愛とは少し違う特殊な絆で結ばれていく、サンフンとヨ二。しかし彼らの人物像は、非常に対照的です。
サンフンは、暴力を見せられ続けたために自身もきわめて暴力的になってしまったという、「負の連鎖」の体現者。優しい面もあるものの、基本的に債務者や年下の同僚、そしてムカつく相手に対しては、すぐ殴る・蹴る・怒鳴る。
逆にヨ二は、「負の連鎖」を断ち切ろうとするかのように、常に気丈で理性的。自分の悩みや苦しみを一切他人に語らず、非行に走ることもなく、学校に通いながら父と弟の世話を続ける。

あえて単純な言い方をすると、サンフンは愚かすぎて、ヨ二は立派すぎるのです。両極端、というか。現実社会において、機能不全の家庭で育った人々は、サンフンでもなくヨ二でもなく、その間、あるいは2人を混ぜたような性格(人物像)である場合が多いんじゃないでしょうか。
もちろんフィクションでは、現実社会をそのまま反映させる必要は無いし、むしろ作り手としては、フィクションだからこそ、極端な人物造形で強烈な印象を狙ったのでしょう。しかし観客の感情移入という点では、どうなのかな、と。
 

私自身、この映画のいくつかの場面が過去の辛い記憶と重なり、観ていてウッとなったものの、作品自体には今ひとつ入り込むことができませんでした。もしサンフンとヨ二が(どちらか一方でも)、愚かでもなく立派でもない、そんな曖昧な人物として描かれていれば、すっと入り込めたかもしれません。

補足です

 前回の『アバター』記事の補足です。
 まず、いつもブログを読んでくれている友人から、質問が来まして。「『アバター』の3D映像、ちゃんと飛び出して見えた?」‥‥そういえば、そのへんについて書いてなかったなあ、と。
 で、実際のところどうだったかというと、あまり「飛び出して見える」という感じではなかったです。なんというか、「手前に飛び出して見える」ことよりも、「奥行きがあるように見える」ことに重点を置いて作られたようで。
 だから例えば、こっちに向かって何かがビューンと飛んでくるように見えたので思わずよけた、なんてことは無かったです。まあ、最近の3Dは洗練されてきたというか、立体的であることを過剰に強調するような段階は過ぎたのでしょう。

 もうひとつ、『イノセンス』のオープニング映像について。これは、押井監督の演出に言及した際に、そのひとつの例として紹介しリンクを張ったわけですが。あとで、「そういやオープニングって監督とは別の人が演出してる場合もあるよな」と、ちょっと不安になりまして。
 そこで『イノセンス』のクレジットを調べてみたところ、オープニングの制作スタッフの中でも、タイトル部分のスタッフには「CGIディレクター」という肩書きの方がいるものの、映像自体のスタッフには、「ディレクター」や「演出」にあたる方はいませんでした。つまり、「オープニングの演出も押井監督」という解釈で、いいんじゃないかと。
 ちなみにYouTubeには、アヴァンタイトルとオープニングが一緒にアップされているものもあるので、今回はそちらにリンクしておきます

『アバター』

2009年 アメリカ 監督・脚本:ジェームズ・キャメロン 出演:サム・ワーシントン、ゾーイ・サルダナ、シガーニー・ウィーバー、スティーブン・ラング、ミシェル・ロドリゲス
全国各地で上映中  公式サイト→http://movies.foxjapan.com/avatar/

 今月の初め頃に、3D版(IMAXではない)を鑑賞。正直言って、作品自体はあまり「頭にこびりつく」という感じではなかったので、最初は記事にしないつもりだったのですが、どうやら「この映画を観て考えさせられたこと」の方は、少々こびりついているようなので、それについて書いておきます。

 結局、3Dなどの最新技術がどうこうという以前に、基本的な演出技術は大事だな、と。キャメロン監督はやはり、見せ方が巧いです。特に戦闘シーン。
 いつの頃からか、戦闘シーンやアクション・シーンで、やたらカチャカチャカチャカチャ小刻みにカットを切りかえて(何が映っているのかよく見えない)、それでスリルや迫力を演出したつもりになっている映画が増えましたけど、『アバター』はそういうのとは対照的。人や戦闘機などの位置関係、距離感、誰がどう攻撃している(されている)のか、などをきちんと見せたうえで、スリルや迫力も充分に醸し出しています。
 そういう基本的なことが出来ているからこそ、3Dも効いてくるわけで。

 この作品のヒットによって、今後いろんな「SFものの3D映画」が作られるんでしょうけど、戦闘シーンでカチャカチャ式の演出しかできないような監督の3D映画は、観たくないなあ。目や頭が痛くなるだけで、面白くないと思う。

 あ、設定やストーリーに触れてないですね。少し書いておきましょう。簡単に言うと‥‥地球人に似た“ナヴィ”が住む惑星パンドラには貴重な鉱物資源があり、その資源を得るため地球人がナヴィを支配しようとするがうまくいかず、やがて戦いになり‥‥というもの。
 ちなみに、既にいろいろな方が指摘している通り、いくつかの要素には、押井守からの影響が感じられます。例えば、地球人が自分たちとナヴィのDNAを合成してアバター(分身)を作り、そのアバターに意識を転送して操作するあたりや、ナヴィと動植物のネットワークに関する設定は、押井監督の『攻殻機動隊』や『イノセンス』を連想させます。
 まあキャメロン監督は昔から、押井作品が好きだと公言していたので、今回それがストレートに作品に出た感じですね。

 余談ですが‥‥押井作品というと、その独特なテーマや台詞について語られることが多く、たしかにそこも重要なんですけど、実際にはキャメロン作品と同じく、戦闘シーンやアクション・シーンの演出が優れている、と私は常々思っています。や、その手のシーンに限らず、全体的に構図や動きの見せ方が巧い(『イノセンス』のオープニング映像なんてホントに素晴らしいし)。
 やはり映画監督というのは、最新技術に詳しいとかテーマの選び方がどうとかいう以前に、まず基本的な演出力を持っていることが大事ですよね。当たり前ですけど。

※追記‥‥この文章、ちょっと説明不足なので補足記事を書きました。こちらもどうぞ。

『脳内ニューヨーク』

2008年 アメリカ 監督・脚本:チャーリー・カウフマン 出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、キャスリーン・キーナー、サマンサ・モートン、エミリー・ワトソン、ジェニファー・ジェイソン・リー、ミシェル・ウィリアムズ、ダイアン・ウィースト、トム・ヌーナン
札幌・大阪などで上映中  公式サイト→http://no-ny.asmik-ace.co.jp/index.html

 1ヶ月ほど前に、渋谷のシネマライズにて鑑賞。今回は作品の記憶が薄れてから書いたので、抽象的な文章になってしまいました。ご了承ください。

 この映画は、『マルコヴィッチの穴』や『アダプテーション』などの脚本を書いたチャーリー・カウフマンの初監督作品。であるからして、ちょいと不思議な感じの映画だろう‥と思いつつ、観に行ったわけですが。思った以上に、摩訶不思議な映画でした。
 なんというか‥‥最初のうちは、設定もストーリーもいわゆるリアルな人間ドラマ風に見えつつも、細部には非現実的な要素が織り込まれていて、そうこうするうちにストーリー自体もかなり非現実的な展開になっていき、しだいにどれが現実でどれが夢(妄想?)でどれが劇中劇なのか分からなくなる‥‥というような構成。まあ、作品自体が一種のファンタジーというか。

 そんなわけで、解釈も評価も人によって相当分かれそうです。私の解釈としては、この映画の場合、「どれが現実でどれが夢(妄想?)で~」というような区別は、たぶん無い。すべてが現実、あるいはすべてが非現実。どちらでもいい。そういう判定には、あまり意味が無い。
 そして私の評価。「老い」を描いた作品として秀逸。や、「老い」そのものを描いたというよりも、“「老い」を意識するということ”を描いた、と言ったほうが、ふさわしいかも。いずれにせよ、かなり身にしみました。

 主人公は中年の劇作家。仕事も家庭もうまくいかず、妻子に去られ。他に好きな女性ができてもうまくいかず、後悔ばかりが積み重なる。体調も悪い。大きな仕事のチャンスを得るものの、いつまでたっても作品が完成せず、どんどん歳をとっていく。残り時間が少ない。焦りと諦めと、ほんの少しの希望。
 
 こういう心境が、実にうまく描かれていまして。当然、暗さをたっぷり含んだ映画ではあるのですが、後味はさほど悪くないです。先ほど「すべてが現実、あるいはすべてが非現実」と表現した、ある種ファンタジックな構成が、効いているのでしょう。
 例えば、もしこの題材というかテーマを、ストレートにリアリズムで映画化したら、観た後ひたすら辛くなるような作品に仕上がるんじゃないでしょうか。ただ、それはそれで、相当に迫力のある映画になるかも。特に、これと同じくフィリップ・シーモア・ホフマンが主演した場合は。
 ちなみに私にとって、フィリップ氏はかなり好きな役者さんです。トッド・ソロンズの『ハピネス』の時とか、よかったしなあ。彼には、独特の吸引力がある。

 ところで、この作品のエンドクレジットで流れる歌。妙に歌詞が映画の内容と合っていて、しかも(映画の構成とともに)作品の後味を良くしている美しい歌だな~と思ったら、監督自ら作詞したオリジナルのテーマソングでした。なるほど。

『レスラー』

2008年 アメリカ・フランス 監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:ロバート・シーゲル 出演:ミッキー・ローク、マリサ・トメイ、エヴァン・レイチェル・ウッド
上映中  公式サイト→http://www.wrestler.jp/

 数日前に、日比谷のTOHOシネマズ シャンテにて鑑賞。今回の文章は最初のうちから作品の終盤に触れているので、ネタばれOKの方のみ、お読みください。

 この映画のストーリーを短く要約すると、以下のようになります。「落ち目の中年レスラーが心臓発作をキッカケに引退するが、それを撤回して再びリングに上がる」。
 しかし、これでは不充分。不正確ではないけれど、大事な部分が抜けているのです。それは、動機。主人公はなぜ再びリングに上がったのか。その内実によって、映画全体の印象はかなり変わってくるはず。
 
 例えば、「死を覚悟してでも自らの限界に挑戦したくて」といったチャレンジ精神のようなものが動機であれば、この映画はもう少し明るいものになっていたでしょう。まあ、そういうチャレンジ精神も皆無とは言い切れないのですが、やはりそれよりも、「他に居場所が無いから」という動機がいちばん強いように感じられるのです。そしてその点が、興味深い。

 主人公のランディ(ミッキー・ローク)は、既に色々なものを失っています。かつての栄光、金、名声、頑丈な肉体。そして、長く続けてきたレスラーという仕事も失うことに。
 さらに、思いを寄せる女性・キャシディ(マリサ・トメイ)と親密になりかけたものの、交際を断られ。また、疎遠だった娘のステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)と和解したものの、自分のだらしなさによって結局は絶縁状態に。ついには、勤務先のスーパーで店長や客の態度にブチ切れ、せっかく就いた新しい仕事も辞めてしまいます。
 
 とりわけ娘との関係において、彼は相当のダメ人間。いくらキャシディにつれなくされてショックだったとはいえ、行きずりのどうでもいいようなネエチャン(やたらデカい声で悶える)と一夜を共にし、大事な娘との約束をすっぽかしてしまうのですから。
 
 ただランディは、すべての人間関係に失敗しているわけではありません。というのも彼、レスラー仲間との関係はきわめて良好。同世代からも若手からも、信頼されているのです。 
 おそらく仲間に対しては、裏切ったり(精神的に)傷つけたりするようなことを、一切していないのでしょう。これって、自分と同じ世界の人とはうまく付き合えるけれどそれ以外の人とはダメ、ということなのかも。いずれにせよ、彼は根本的にリングの中でしかうまく生きられない。

 ラスト近く、再びリングに上がる直前のランディが、こんなことを言います。「痛いのは外の現実の方だ」。リングの中での肉体的な苦痛よりも、現実世界での精神的な苦痛の方が耐え難い、ということ。そして当然、この時の彼の健康状態からすると、「リングの中での肉体的な苦痛」は「死」につながる可能性も高いわけで。
 つまり彼は、「現実」よりも「死に向かう肉体の苦痛」を選んだ。これは悲劇であると同時に、甘美な頽廃だと思います。
 
 この映画の長所のひとつは、上記のような内容と主演俳優の持ち味が合っていること。ミッキー・ロークは、若手の人気スターとして活躍していた頃から、既に頽廃的な雰囲気を漂わせていました。
 彼の昔の主演作でまずパッと浮かぶのは、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』『エンゼル・ハート』『ナインハーフ』あたりですが、どの作品でも彼のヌメッとした感じ、湿り気のある破滅的な佇まいが基調になっていたような気がします。もちろん今の彼は、当時と比べて顔も体型も変わってしまいましたが、それでも本質的な頽廃のムードは不変で、むしろ磨きがかかっているのかも。

 ちなみに私は、ミッキー・ロークのファンだった過去も無いし、彼自身に特別な思い入れはありません。ただ、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はかなり好きな映画です(マイケル・チミノ、最近どうしてるんだ?)。
 そういえば『ローグ アサシン』の記事でも、ジョン・ローンに絡めて『イヤー・オブ~』にチラッと触れたなあ。そのうちDVDで観直してみようか‥‥でもあの映画は、なるべくならデカいスクリーンで観たい。なにしろ初めて観たのが、今は無き渋谷パンテオンだったし。

『グラン・トリノ』

2008年 アメリカ 監督・出演:クリント・イーストウッド 脚本:ニック・シェンク 出演:ビー・バン、アーニー・ハー、クリストファー・カーリー
全国各地で上映中  公式サイト→http://wwws.warnerbros.co.jp/grantorino/#/top

 10日ほど前に某シネコンにて鑑賞。この映画に関しては、既にたくさんの方たちが批評や感想を書いてらっしゃるようなので、今さら私が書く必要は無いのでは‥と思っていたのですが、例の湿疹も病院を変えてから少しずつ落ち着いてきたことだし、気を取り直して、ちょっとだけ書いておきます。
 とにかくこの映画、広く色んな方々に観てほしいです。描かれている内容が、今の時代にとても重要なことだと思うので。そしてそういう重い内容を描きながら、作品自体はかなり軽やかで、クスッと笑える場面も多く、ラストにはオリジナルの主題歌が流れる「ザ・娯楽映画」として仕上がっている点も、観どころではないかと。

 さて上記の「ザ・娯楽映画」という言葉には、「分かりやすい(難解ではない)映画」という意味も込めました。実際、そういう映画なのです。といっても構成や演出は、平凡(ありきたり)ではありません。奇をてらったところは無いのに、どこか非凡な感触があるのです。  
 
 それには色々な要素が関係していると思いますが、私が特に気になったのは、「過去をひきずっている人物が主人公でありながら、回想シーンが全く無い」ということ。イーストウッド演じる主人公・コワルスキーは、朝鮮戦争での自分の行いに深い罪悪感を抱きつづけ、フォードの熟練工として活躍した日々を懐かしみ、亡くなった妻を恋しがり‥‥と、常に過去を思いながら生きている老人。普通こういう人物が主人公の場合、彼の過去を描いた回想シーンが登場しがちですが、全くそうなっていないのです。

 回想シーンというのは、えてして感傷的な雰囲気を作品にもたらすことが多く、もちろんそれが効果を上げる場合もあるのですが、作り手側は今回、あえて感傷を抑制したのかもしれません。結果として、作品自体もコワルスキーの人物像も、かなり理知的なものになっています。そして何よりも、この映画の肝であるコワルスキーの最後の行動は、感傷や感情を超えた理知の力としてスクリーンに映し出されています。

『マーゴット・ウェディング』

2007年 アメリカ 監督・脚本:ノア・バームバック 出演:二コール・キッドマン、ジェニファー・ジェイソン・リー、ゼイン・パイス、ジャック・ブラック、ジョン・タトゥーロ
(日本未公開、DVD発売&レンタル中)
発売元の公式サイト→http://dvd.paramount.jp/search/detail.php?id=2377

 先週、近所のDVDレンタル店を久しぶりに覗いてみたところ、以前からちょっと気になっていたこの作品があったので、レンタルして鑑賞。
 大まかなストーリーは、作家のマーゴット(二コール・キッドマン)には絶縁中の妹・ポーリン(ジェニファー・ジェイソン・リー)がいて、2人はポーリンの再婚を機に久しぶりに会うが、次々にトラブルや摩擦が起き‥‥というもの。キッドマン主演ながら日本では劇場公開されず、DVDスルーとなった作品で、観てみると、公開されなかった理由は何となく分かります。

※以下の文章では、作品の結末に触れています。

 基本的に、家族(特に姉妹)の確執を描いた映画でありながら、その家族の過去や事情があまり明らかにされていない。しかも、全体的な構成においてハッキリした起承転結が無く、確執を抱えた者同士が少しも和解しないまま映画が終わる。だから、観たあとやや居心地が悪い。ただこれらは、おそらく意図的なものだと思います。
 というのも、ノア・バームバック監督の前作『イカとクジラ』は、今回と同じく家族のゴタゴタを題材にしながらも、その家族の事情はかなり描かれていたし、わりと普通に起承転結があり、最後はそれなりに「いい話」としてまとまっていたからです。つまり今回は、前回と同じような題材を敢えて違うテイストで映画化してみた、ということかもしれません。で、その試みは成功しているのかどうか。私は、半分失敗で半分成功、くらいだと思います。

 まず家族の事情については、もう少し詳しく描くべきだったのではないかと。マーゴットがかつてポーリンの結婚生活を本に書き破局に追い込んだ(とポーリンは思っている)ことなど、2人の間の事情はある程度明かされるのですが、どうにもよく分からない部分が色々あるのです。
 
 例えば2人にはベッキーという妹(姉?)がいるらしく、彼女に関しても何やら複雑な事情があるかのようにセリフで語られるものの、結局それは明かされず、ベッキー自身もほんのチラッとしか登場しません。これ、観ている側としては「いったい何だったんだ?」という感じ。
 また、マーゴットが自分の息子であるクロード(ゼイン・パイス)に向かって、「ママのところへ行って」と言ったあと慌てて「ポーリンのところへ行って」と言い直すシーンがあり、これってもしかしてクロードの実母はポーリンってこと? と気になるわけですが、それについても最後まで触れられず、またしても「いったい何だったんだ?」。
 
 まあこの作品に限らず、観客に複数の謎を残したまま終わる映画というのは、たまにあるもので。作り手側としては観客の想像力に委ねているのかもしれませんが、観客としてはアレもコレもと委ねられても混乱するだけなので、謎はせめて1つにしてほしいです。例えば今回の場合なら、ベッキー云々は謎のままでいいとしても、クロードの実母問題などマーゴットとポーリンの関係性については、もう少しハッキリさせてほしかった。
 余談ですが、この観たあと謎が残る感覚って‥‥残尿感に似ている。今後はこの手の映画を、「残尿感映画」と呼ぶことにしよう。

 しかし、この映画の「ハッキリした起承転結が無く、確執を抱えた者同士が少しも和解しないまま映画が終わる」という点に関しては評価したいです。というか、こういう映画もあった方がいい。
 一般的に、映画などで人と人との確執を描く場合、結局はある程度和解してハッピーエンド、というパターンが多いですよね。や、イイと思いますよ、そういう明るい映画。ただ、「人と人とは分かり合えない場合もある」ということを提示する作品も、私は支持したいです。特にこの映画のように、「分かり合えないけれど、それでも人生は続く」というような終わり方をする作品は、ある意味貴重。
 分かり合えない場合もある、でも失望しすぎないで生きていく。これも、ひとつの明るさなんじゃないでしょうか。
 
 ちなみにこの映画の姉妹の関係は、どちらかが正しくてどちらかが悪い、というものではありません。両方とも性格に問題あり。そして姉の方は自分の短所を自覚している様子、でもどうにもできない。そこが虚しいような、面白いような。
プロフィール

サイボク

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
twitter.com/saiboku_ya

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