『息もできない』

2008年 韓国 監督・脚本・出演:ヤン・イクチュン 出演:キム・コッピ、イ・ファン、チョン・マンシク、ユン・スンフン、キム・ヒス、パク・チョンスン
シネマライズ(東京)にて上映中、他の地域でも上映予定多数あり  
公式サイト→http://www.bitters.co.jp/ikimodekinai/index.html
 

2週間ほど前、シネマライズにて鑑賞。もともとは俳優であるヤン・イクチュンが、製作・監督・脚本・編集・主演の5役をこなして創りあげた長編監督デビュー作。
彼自身の辛い経験(生い立ち)をもとにした内容でありながら、自己愛や自己憐憫が前面に出ることもなく、深刻な中にユーモラスな要素も入った秀逸な映画なのですが、私にとっては、どうも今ひとつグッときませんでした。その原因は、メインの登場人物2人の造形にあるような気が。

取り立て屋のサンフンと、女子高生のヨ二。2人とも、暗く荒れた家庭で育った。
サンフンの父は、母に暴力をふるい続け、それがもとで母と妹は死亡。ヨ二の父はベトナム戦争の帰還兵で、精神的な後遺症があり、被害妄想による暴言が絶えない(「ヨ二が自分を殺そうとしている」など)。母はすでに死去。暴力的な弟がいる。

似た環境で生きてきたせいか、恋愛とは少し違う特殊な絆で結ばれていく、サンフンとヨ二。しかし彼らの人物像は、非常に対照的です。
サンフンは、暴力を見せられ続けたために自身もきわめて暴力的になってしまったという、「負の連鎖」の体現者。優しい面もあるものの、基本的に債務者や年下の同僚、そしてムカつく相手に対しては、すぐ殴る・蹴る・怒鳴る。
逆にヨ二は、「負の連鎖」を断ち切ろうとするかのように、常に気丈で理性的。自分の悩みや苦しみを一切他人に語らず、非行に走ることもなく、学校に通いながら父と弟の世話を続ける。

あえて単純な言い方をすると、サンフンは愚かすぎて、ヨ二は立派すぎるのです。両極端、というか。現実社会において、機能不全の家庭で育った人々は、サンフンでもなくヨ二でもなく、その間、あるいは2人を混ぜたような性格(人物像)である場合が多いんじゃないでしょうか。
もちろんフィクションでは、現実社会をそのまま反映させる必要は無いし、むしろ作り手としては、フィクションだからこそ、極端な人物造形で強烈な印象を狙ったのでしょう。しかし観客の感情移入という点では、どうなのかな、と。
 

私自身、この映画のいくつかの場面が過去の辛い記憶と重なり、観ていてウッとなったものの、作品自体には今ひとつ入り込むことができませんでした。もしサンフンとヨ二が(どちらか一方でも)、愚かでもなく立派でもない、そんな曖昧な人物として描かれていれば、すっと入り込めたかもしれません。

補足です

 前回の『アバター』記事の補足です。
 まず、いつもブログを読んでくれている友人から、質問が来まして。「『アバター』の3D映像、ちゃんと飛び出して見えた?」‥‥そういえば、そのへんについて書いてなかったなあ、と。
 で、実際のところどうだったかというと、あまり「飛び出して見える」という感じではなかったです。なんというか、「手前に飛び出して見える」ことよりも、「奥行きがあるように見える」ことに重点を置いて作られたようで。
 だから例えば、こっちに向かって何かがビューンと飛んでくるように見えたので思わずよけた、なんてことは無かったです。まあ、最近の3Dは洗練されてきたというか、立体的であることを過剰に強調するような段階は過ぎたのでしょう。

 もうひとつ、『イノセンス』のオープニング映像について。これは、押井監督の演出に言及した際に、そのひとつの例として紹介しリンクを張ったわけですが。あとで、「そういやオープニングって監督とは別の人が演出してる場合もあるよな」と、ちょっと不安になりまして。
 そこで『イノセンス』のクレジットを調べてみたところ、オープニングの制作スタッフの中でも、タイトル部分のスタッフには「CGIディレクター」という肩書きの方がいるものの、映像自体のスタッフには、「ディレクター」や「演出」にあたる方はいませんでした。つまり、「オープニングの演出も押井監督」という解釈で、いいんじゃないかと。
 ちなみにYouTubeには、アヴァンタイトルとオープニングが一緒にアップされているものもあるので、今回はそちらにリンクしておきます

『アバター』

2009年 アメリカ 監督・脚本:ジェームズ・キャメロン 出演:サム・ワーシントン、ゾーイ・サルダナ、シガーニー・ウィーバー、スティーブン・ラング、ミシェル・ロドリゲス
全国各地で上映中  公式サイト→http://movies.foxjapan.com/avatar/

 今月の初め頃に、3D版(IMAXではない)を鑑賞。正直言って、作品自体はあまり「頭にこびりつく」という感じではなかったので、最初は記事にしないつもりだったのですが、どうやら「この映画を観て考えさせられたこと」の方は、少々こびりついているようなので、それについて書いておきます。

 結局、3Dなどの最新技術がどうこうという以前に、基本的な演出技術は大事だな、と。キャメロン監督はやはり、見せ方が巧いです。特に戦闘シーン。
 いつの頃からか、戦闘シーンやアクション・シーンで、やたらカチャカチャカチャカチャ小刻みにカットを切りかえて(何が映っているのかよく見えない)、それでスリルや迫力を演出したつもりになっている映画が増えましたけど、『アバター』はそういうのとは対照的。人や戦闘機などの位置関係、距離感、誰がどう攻撃している(されている)のか、などをきちんと見せたうえで、スリルや迫力も充分に醸し出しています。
 そういう基本的なことが出来ているからこそ、3Dも効いてくるわけで。

 この作品のヒットによって、今後いろんな「SFものの3D映画」が作られるんでしょうけど、戦闘シーンでカチャカチャ式の演出しかできないような監督の3D映画は、観たくないなあ。目や頭が痛くなるだけで、面白くないと思う。

 あ、設定やストーリーに触れてないですね。少し書いておきましょう。簡単に言うと‥‥地球人に似た“ナヴィ”が住む惑星パンドラには貴重な鉱物資源があり、その資源を得るため地球人がナヴィを支配しようとするがうまくいかず、やがて戦いになり‥‥というもの。
 ちなみに、既にいろいろな方が指摘している通り、いくつかの要素には、押井守からの影響が感じられます。例えば、地球人が自分たちとナヴィのDNAを合成してアバター(分身)を作り、そのアバターに意識を転送して操作するあたりや、ナヴィと動植物のネットワークに関する設定は、押井監督の『攻殻機動隊』や『イノセンス』を連想させます。
 まあキャメロン監督は昔から、押井作品が好きだと公言していたので、今回それがストレートに作品に出た感じですね。

 余談ですが‥‥押井作品というと、その独特なテーマや台詞について語られることが多く、たしかにそこも重要なんですけど、実際にはキャメロン作品と同じく、戦闘シーンやアクション・シーンの演出が優れている、と私は常々思っています。や、その手のシーンに限らず、全体的に構図や動きの見せ方が巧い(『イノセンス』のオープニング映像なんてホントに素晴らしいし)。
 やはり映画監督というのは、最新技術に詳しいとかテーマの選び方がどうとかいう以前に、まず基本的な演出力を持っていることが大事ですよね。当たり前ですけど。

※追記‥‥この文章、ちょっと説明不足なので補足記事を書きました。こちらもどうぞ。

『脳内ニューヨーク』

2008年 アメリカ 監督・脚本:チャーリー・カウフマン 出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、キャスリーン・キーナー、サマンサ・モートン、エミリー・ワトソン、ジェニファー・ジェイソン・リー、ミシェル・ウィリアムズ、ダイアン・ウィースト、トム・ヌーナン
札幌・大阪などで上映中  公式サイト→http://no-ny.asmik-ace.co.jp/index.html

 1ヶ月ほど前に、渋谷のシネマライズにて鑑賞。今回は作品の記憶が薄れてから書いたので、抽象的な文章になってしまいました。ご了承ください。

 この映画は、『マルコヴィッチの穴』や『アダプテーション』などの脚本を書いたチャーリー・カウフマンの初監督作品。であるからして、ちょいと不思議な感じの映画だろう‥と思いつつ、観に行ったわけですが。思った以上に、摩訶不思議な映画でした。
 なんというか‥‥最初のうちは、設定もストーリーもいわゆるリアルな人間ドラマ風に見えつつも、細部には非現実的な要素が織り込まれていて、そうこうするうちにストーリー自体もかなり非現実的な展開になっていき、しだいにどれが現実でどれが夢(妄想?)でどれが劇中劇なのか分からなくなる‥‥というような構成。まあ、作品自体が一種のファンタジーというか。

 そんなわけで、解釈も評価も人によって相当分かれそうです。私の解釈としては、この映画の場合、「どれが現実でどれが夢(妄想?)で~」というような区別は、たぶん無い。すべてが現実、あるいはすべてが非現実。どちらでもいい。そういう判定には、あまり意味が無い。
 そして私の評価。「老い」を描いた作品として秀逸。や、「老い」そのものを描いたというよりも、“「老い」を意識するということ”を描いた、と言ったほうが、ふさわしいかも。いずれにせよ、かなり身にしみました。

 主人公は中年の劇作家。仕事も家庭もうまくいかず、妻子に去られ。他に好きな女性ができてもうまくいかず、後悔ばかりが積み重なる。体調も悪い。大きな仕事のチャンスを得るものの、いつまでたっても作品が完成せず、どんどん歳をとっていく。残り時間が少ない。焦りと諦めと、ほんの少しの希望。
 
 こういう心境が、実にうまく描かれていまして。当然、暗さをたっぷり含んだ映画ではあるのですが、後味はさほど悪くないです。先ほど「すべてが現実、あるいはすべてが非現実」と表現した、ある種ファンタジックな構成が、効いているのでしょう。
 例えば、もしこの題材というかテーマを、ストレートにリアリズムで映画化したら、観た後ひたすら辛くなるような作品に仕上がるんじゃないでしょうか。ただ、それはそれで、相当に迫力のある映画になるかも。特に、これと同じくフィリップ・シーモア・ホフマンが主演した場合は。
 ちなみに私にとって、フィリップ氏はかなり好きな役者さんです。トッド・ソロンズの『ハピネス』の時とか、よかったしなあ。彼には、独特の吸引力がある。

 ところで、この作品のエンドクレジットで流れる歌。妙に歌詞が映画の内容と合っていて、しかも(映画の構成とともに)作品の後味を良くしている美しい歌だな~と思ったら、監督自ら作詞したオリジナルのテーマソングでした。なるほど。

『レスラー』

2008年 アメリカ・フランス 監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:ロバート・シーゲル 出演:ミッキー・ローク、マリサ・トメイ、エヴァン・レイチェル・ウッド
上映中  公式サイト→http://www.wrestler.jp/

 数日前に、日比谷のTOHOシネマズ シャンテにて鑑賞。今回の文章は最初のうちから作品の終盤に触れているので、ネタばれOKの方のみ、お読みください。

 この映画のストーリーを短く要約すると、以下のようになります。「落ち目の中年レスラーが心臓発作をキッカケに引退するが、それを撤回して再びリングに上がる」。
 しかし、これでは不充分。不正確ではないけれど、大事な部分が抜けているのです。それは、動機。主人公はなぜ再びリングに上がったのか。その内実によって、映画全体の印象はかなり変わってくるはず。
 
 例えば、「死を覚悟してでも自らの限界に挑戦したくて」といったチャレンジ精神のようなものが動機であれば、この映画はもう少し明るいものになっていたでしょう。まあ、そういうチャレンジ精神も皆無とは言い切れないのですが、やはりそれよりも、「他に居場所が無いから」という動機がいちばん強いように感じられるのです。そしてその点が、興味深い。

 主人公のランディ(ミッキー・ローク)は、既に色々なものを失っています。かつての栄光、金、名声、頑丈な肉体。そして、長く続けてきたレスラーという仕事も失うことに。
 さらに、思いを寄せる女性・キャシディ(マリサ・トメイ)と親密になりかけたものの、交際を断られ。また、疎遠だった娘のステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)と和解したものの、自分のだらしなさによって結局は絶縁状態に。ついには、勤務先のスーパーで店長や客の態度にブチ切れ、せっかく就いた新しい仕事も辞めてしまいます。
 
 とりわけ娘との関係において、彼は相当のダメ人間。いくらキャシディにつれなくされてショックだったとはいえ、行きずりのどうでもいいようなネエチャン(やたらデカい声で悶える)と一夜を共にし、大事な娘との約束をすっぽかしてしまうのですから。
 
 ただランディは、すべての人間関係に失敗しているわけではありません。というのも彼、レスラー仲間との関係はきわめて良好。同世代からも若手からも、信頼されているのです。 
 おそらく仲間に対しては、裏切ったり(精神的に)傷つけたりするようなことを、一切していないのでしょう。これって、自分と同じ世界の人とはうまく付き合えるけれどそれ以外の人とはダメ、ということなのかも。いずれにせよ、彼は根本的にリングの中でしかうまく生きられない。

 ラスト近く、再びリングに上がる直前のランディが、こんなことを言います。「痛いのは外の現実の方だ」。リングの中での肉体的な苦痛よりも、現実世界での精神的な苦痛の方が耐え難い、ということ。そして当然、この時の彼の健康状態からすると、「リングの中での肉体的な苦痛」は「死」につながる可能性も高いわけで。
 つまり彼は、「現実」よりも「死に向かう肉体の苦痛」を選んだ。これは悲劇であると同時に、甘美な頽廃だと思います。
 
 この映画の長所のひとつは、上記のような内容と主演俳優の持ち味が合っていること。ミッキー・ロークは、若手の人気スターとして活躍していた頃から、既に頽廃的な雰囲気を漂わせていました。
 彼の昔の主演作でまずパッと浮かぶのは、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』『エンゼル・ハート』『ナインハーフ』あたりですが、どの作品でも彼のヌメッとした感じ、湿り気のある破滅的な佇まいが基調になっていたような気がします。もちろん今の彼は、当時と比べて顔も体型も変わってしまいましたが、それでも本質的な頽廃のムードは不変で、むしろ磨きがかかっているのかも。

 ちなみに私は、ミッキー・ロークのファンだった過去も無いし、彼自身に特別な思い入れはありません。ただ、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』はかなり好きな映画です(マイケル・チミノ、最近どうしてるんだ?)。
 そういえば『ローグ アサシン』の記事でも、ジョン・ローンに絡めて『イヤー・オブ~』にチラッと触れたなあ。そのうちDVDで観直してみようか‥‥でもあの映画は、なるべくならデカいスクリーンで観たい。なにしろ初めて観たのが、今は無き渋谷パンテオンだったし。

『グラン・トリノ』

2008年 アメリカ 監督・出演:クリント・イーストウッド 脚本:ニック・シェンク 出演:ビー・バン、アーニー・ハー、クリストファー・カーリー
全国各地で上映中  公式サイト→http://wwws.warnerbros.co.jp/grantorino/#/top

 10日ほど前に某シネコンにて鑑賞。この映画に関しては、既にたくさんの方たちが批評や感想を書いてらっしゃるようなので、今さら私が書く必要は無いのでは‥と思っていたのですが、例の湿疹も病院を変えてから少しずつ落ち着いてきたことだし、気を取り直して、ちょっとだけ書いておきます。
 とにかくこの映画、広く色んな方々に観てほしいです。描かれている内容が、今の時代にとても重要なことだと思うので。そしてそういう重い内容を描きながら、作品自体はかなり軽やかで、クスッと笑える場面も多く、ラストにはオリジナルの主題歌が流れる「ザ・娯楽映画」として仕上がっている点も、観どころではないかと。

 さて上記の「ザ・娯楽映画」という言葉には、「分かりやすい(難解ではない)映画」という意味も込めました。実際、そういう映画なのです。といっても構成や演出は、平凡(ありきたり)ではありません。奇をてらったところは無いのに、どこか非凡な感触があるのです。  
 
 それには色々な要素が関係していると思いますが、私が特に気になったのは、「過去をひきずっている人物が主人公でありながら、回想シーンが全く無い」ということ。イーストウッド演じる主人公・コワルスキーは、朝鮮戦争での自分の行いに深い罪悪感を抱きつづけ、フォードの熟練工として活躍した日々を懐かしみ、亡くなった妻を恋しがり‥‥と、常に過去を思いながら生きている老人。普通こういう人物が主人公の場合、彼の過去を描いた回想シーンが登場しがちですが、全くそうなっていないのです。

 回想シーンというのは、えてして感傷的な雰囲気を作品にもたらすことが多く、もちろんそれが効果を上げる場合もあるのですが、作り手側は今回、あえて感傷を抑制したのかもしれません。結果として、作品自体もコワルスキーの人物像も、かなり理知的なものになっています。そして何よりも、この映画の肝であるコワルスキーの最後の行動は、感傷や感情を超えた理知の力としてスクリーンに映し出されています。

『マーゴット・ウェディング』

2007年 アメリカ 監督・脚本:ノア・バームバック 出演:二コール・キッドマン、ジェニファー・ジェイソン・リー、ゼイン・パイス、ジャック・ブラック、ジョン・タトゥーロ
(日本未公開、DVD発売&レンタル中)
発売元の公式サイト→http://dvd.paramount.jp/search/detail.php?id=2377

 先週、近所のDVDレンタル店を久しぶりに覗いてみたところ、以前からちょっと気になっていたこの作品があったので、レンタルして鑑賞。
 大まかなストーリーは、作家のマーゴット(二コール・キッドマン)には絶縁中の妹・ポーリン(ジェニファー・ジェイソン・リー)がいて、2人はポーリンの再婚を機に久しぶりに会うが、次々にトラブルや摩擦が起き‥‥というもの。キッドマン主演ながら日本では劇場公開されず、DVDスルーとなった作品で、観てみると、公開されなかった理由は何となく分かります。

※以下の文章では、作品の結末に触れています。

 基本的に、家族(特に姉妹)の確執を描いた映画でありながら、その家族の過去や事情があまり明らかにされていない。しかも、全体的な構成においてハッキリした起承転結が無く、確執を抱えた者同士が少しも和解しないまま映画が終わる。だから、観たあとやや居心地が悪い。ただこれらは、おそらく意図的なものだと思います。
 というのも、ノア・バームバック監督の前作『イカとクジラ』は、今回と同じく家族のゴタゴタを題材にしながらも、その家族の事情はかなり描かれていたし、わりと普通に起承転結があり、最後はそれなりに「いい話」としてまとまっていたからです。つまり今回は、前回と同じような題材を敢えて違うテイストで映画化してみた、ということかもしれません。で、その試みは成功しているのかどうか。私は、半分失敗で半分成功、くらいだと思います。

 まず家族の事情については、もう少し詳しく描くべきだったのではないかと。マーゴットがかつてポーリンの結婚生活を本に書き破局に追い込んだ(とポーリンは思っている)ことなど、2人の間の事情はある程度明かされるのですが、どうにもよく分からない部分が色々あるのです。
 
 例えば2人にはベッキーという妹(姉?)がいるらしく、彼女に関しても何やら複雑な事情があるかのようにセリフで語られるものの、結局それは明かされず、ベッキー自身もほんのチラッとしか登場しません。これ、観ている側としては「いったい何だったんだ?」という感じ。
 また、マーゴットが自分の息子であるクロード(ゼイン・パイス)に向かって、「ママのところへ行って」と言ったあと慌てて「ポーリンのところへ行って」と言い直すシーンがあり、これってもしかしてクロードの実母はポーリンってこと? と気になるわけですが、それについても最後まで触れられず、またしても「いったい何だったんだ?」。
 
 まあこの作品に限らず、観客に複数の謎を残したまま終わる映画というのは、たまにあるもので。作り手側としては観客の想像力に委ねているのかもしれませんが、観客としてはアレもコレもと委ねられても混乱するだけなので、謎はせめて1つにしてほしいです。例えば今回の場合なら、ベッキー云々は謎のままでいいとしても、クロードの実母問題などマーゴットとポーリンの関係性については、もう少しハッキリさせてほしかった。
 余談ですが、この観たあと謎が残る感覚って‥‥残尿感に似ている。今後はこの手の映画を、「残尿感映画」と呼ぶことにしよう。

 しかし、この映画の「ハッキリした起承転結が無く、確執を抱えた者同士が少しも和解しないまま映画が終わる」という点に関しては評価したいです。というか、こういう映画もあった方がいい。
 一般的に、映画などで人と人との確執を描く場合、結局はある程度和解してハッピーエンド、というパターンが多いですよね。や、イイと思いますよ、そういう明るい映画。ただ、「人と人とは分かり合えない場合もある」ということを提示する作品も、私は支持したいです。特にこの映画のように、「分かり合えないけれど、それでも人生は続く」というような終わり方をする作品は、ある意味貴重。
 分かり合えない場合もある、でも失望しすぎないで生きていく。これも、ひとつの明るさなんじゃないでしょうか。
 
 ちなみにこの映画の姉妹の関係は、どちらかが正しくてどちらかが悪い、というものではありません。両方とも性格に問題あり。そして姉の方は自分の短所を自覚している様子、でもどうにもできない。そこが虚しいような、面白いような。

『アラビアのロレンス』完全版

1962年(オリジナル版) 1989年(完全版) イギリス 監督:デヴィッド・リーン 脚本:ロバート・ボルト 出演:ピーター・オトゥール、オマー・シャリフ、アンソニー・クイン、アレック・ギネス
上映中  劇場公式サイト→http://www.cinemabox.com/schedule/times/index.shtml

 このブログとしては珍しく、外国映画の記事が続いています。しかも今回は、世界的に有名なあの『アラビアのロレンス』。実は劇場で観た経験が無く、いつか大きめのスクリーンできちんと鑑賞したいと思っていたところ、テアトルタイムズスクエアで完全版のニュープリントバージョンが上映されることになり、観に行きました。
 
 第1次世界大戦中、イギリス人でありながらアラブ民族の自由と独立のために戦い、「砂漠の英雄」と謳われた実在の人物、T・E・ロレンス。彼のアラビア体験記『知恵の七柱』を、空前絶後の壮大なスケールで映画化した‥‥というのがこの作品の一般的な紹介の仕方。たしかにそういう作品ではあるのですが。

※以下の文章では終盤の展開に触れています。ネタばれOKの方はお読みください。

 私にとってこの映画は、何よりもまず「強烈な挫折の物語」です。とにかく終盤におけるロレンスの挫折と凋落ぶりが、非常に印象的。一時は神のように崇拝され英雄として君臨していた男が、結局は利用され裏切られ、自らの脆さや残虐さを知った末に、あっけなく死んでいくのですから。
 しかもこの「あっけなく死んでいく」という部分が映画の冒頭で描かれ、それに続く葬儀のシーンでは、彼を称える人だけでなく批判する人も登場。さらにこのシーンで、「私は彼と握手したことがある」と誇らしげに語る人物が出てくるのですが、終盤で、実はその人物は、挫折し落胆しきった状態のロレンスと握手していた‥ということが明かされます。
 この構成から察するに、作り手側はT・E・ロレンスの光よりも影の部分に興味を持っていたのでしょう。いや、まあ、私の主観もかなり入っているのかもしれませんが。ついでにもうひとつ、私が感じたことを書いておきます。

 この映画におけるロレンスのキャラクターは、知的で飄々としていてちょっと変わり者で、意志が強く行動力もある、というもの。普通こういうキャラクターは、映画やドラマなどの中で、救世主的な役割を果たす場合が多いですよね。知恵と勇気で危機的状況を改革するとか、無気力な者たちを刺激して活性化させるとか、悩める人々に前向きに生きるヒントを授けるとか。概して、物語をハッピーエンドに導くキーパーソンであることが多いです。
 しかし『アラビアのロレンス』では、そういうキャラクターが途中まではまさに救世主のごとく活躍するものの、結局は無残にも挫折して、あっけない最期を迎えます。事実に基づいた映画ということもあり、観ていて「この世に救世主など居ない」「並外れた力を持つ個人など居ない」と言われているような気持ちになりました。

 上映時間は227分、相当長いですが途中休憩も入りますし、興味のある方はこの機会にぜひご覧ください。おススメします。私はいわゆる「映画賞を総ナメ」的な大作・名作の類にはあまり惹かれない人間ですが、そんな私でもこれはやはり偉大な映画だと思うので。また、今回のような大きめのスクリーンで観ると、まるで自分が砂漠に居るような不思議な感覚も味わえますよ。

 次の記事ではガラリと変わって、某邦画(というかOV)について書きます。

『インファナル・ディパーテッド』

2006年 香港 監督・脚本:ハーマン・ヤオ 出演:ニック・チョン、フランシス・ン、アンソニー・ウォン (日本未公開、DVD発売&レンタル中)
発売元の公式サイト→http://www.takeshobo.co.jp/mgr.m/main/shohin

 あけましておめでとうございます。さて年末年始には3本ほど映画やDVDなどを観たので、それらについて書いておきます。
 まずは『インファナル・ディパーテッド』。この邦題は要するに、『インファナル・アフェア』とそのハリウッド・リメイク版『ディパーテッド』という2つのタイトルを、テキトーにくっつけただけ(たぶん)。
 香港映画だし潜入捜査官モノだし‥という理由は分からんでもないですが、こういう邦題がついていると中身もテキトーだと誤解される確率が高いので、ちょっとどうかと思います。実際には、独自の視点できちんと作られた映画ですし。ちなみに原題は『白黒道(ON THE EDGE)』。

 潜入捜査のため長期間マフィアの一員になりすまし、ボスであるダーク(フランシス・ン)を逮捕したホイサン(ニック・チョン)。やっと警察官として復職したものの、警察内部ではマフィアとの内通を疑われ、マフィアからは「裏切り者」と罵られ、苦しい立場に。しかもダークが刑務所内で自殺してしまい‥‥。
 
 つまりこれは、「潜入捜査の過程で生じる苦悩」ではなく、「潜入捜査を成功させた瞬間から始まる苦悩」を描いた作品。困難な任務を終えて復職したホイサンを待っていたのは、同僚たちの冷ややかな目と、お偉いさんから形式的に授与される功労賞、そして内部調査室による尾行。結局彼は、警察という巨大な組織に利用されたようなもの。しかもマフィアの方にも、彼を利用しようとする者や陥れようとする者が出てきて、ホイサンの孤独と絶望は深まっていきます。
 というわけで、かなり内容的に救いの無い映画。ただ、アンソニー・ウォン演じる同僚刑事が、冷たいように見えて実は温かみがあったり、ダークが単なるワルのボスではなく、なかなか魅力的な人物だったりするあたりは、観ていてホッとします。あ、でも、ダークが魅力的だからこそ彼の自殺が重い意味を持つのであって。やっぱりほとんど救いは無いですね。

 メイン・キャストの3人は、前回の記事に書いた『エグザイル/絆』でも共演していました。で、その記事の最後にチラッと言及したアンソニー主演の『エボラシンドローム 悪魔の殺人ウィルス』&『八仙飯店之人肉饅頭』の監督はハーマン・ヤオですが、この『インファナル・ディパーテッド』の監督もハーマン・ヤオ。同姓同名の別人ではなく同一人物だそうです。
 個人的に『エボラ~』のエロ・グロ・バカっぷりがあまりにも強烈だったので、ヤオ監督がこういうシリアスな映画も撮れると知って、ちょっとビックリ。器用やなあ。ある意味、凄い監督だと思います。
 
 そういえばこの映画、現在(ホイサンが復職してから)の描写の中にたびたび過去(潜入捜査中)の描写が挿入されるという、やや複雑な構成なのですが、決して分かりにくいなんてことはありません。なぜならホイサンの髪が、現在パートでは黒髪、過去パートでは金髪になっているから。これ、設定としても非常に理にかなっていますよね。
 内容的には重めの映画ですけど、こういう部分で視覚的に分かりやすく作ってあるし、上映時間も90分と短めなので、構えずに観ることができますよ。

『エグザイル/絆』

2006年 香港・中国 監督:ジョニー・トー 脚本:セット・カムウェン、イップ・ティンシン、銀河創作組 出演:アンソニー・ウォン、フランシス・ン、ロイ・チョン、ラム・シュ、ニック・チョン、サイモン・ヤム、ジョシー・ホー、リッチー・レン 
公式サイト→http://www.exile-kizuna.com/

 ジョニー・トーは娯楽映画の職人監督として出発し、ある程度キャリアを積んでからは、ノワール・アクション路線とコメディや恋愛モノの路線という、対照的な2つの流れを軸に活躍している監督。私は彼のノワール・アクション路線の作品が好きで、いろいろ観ています。
 ところでトー監督のノワール・アクション路線の日本における公開状況は、ちょっと妙なことになっています。例えば『エレクション』2部作のうち、パート1は日本で公開されたもののパート2は未公開、それなのに次の作品であるこの『エグザイル/絆』は現在公開中。
 
 なぜこういうことになったのかというと、やはり『エレクション』パート1が興行的にコケたから、なのでしょう。コケた理由も、何となく分かります。個人的には好きな作品なのですが、どうにも一般ウケしなさそうというか、人によって好き嫌いがハッキリ分かれそうというか。特に終盤の展開が(おそらく)意図的にハズして作ってあるので、観終わって「‥‥何じゃこれ」と思った人が多いのではないかと。
 それに比べてこの『エグザイル/絆』は、ラストがかなりオーソドックスかつ綺麗にまとまっているので、「何じゃこれ」感は皆無。つまり観た後にモヤモヤしない。また、トー監督のノワール・アクション路線の作品はどちらかというとクールな雰囲気のものが多いのですが、この映画はほどよく情緒的・感傷的なので、広い層に受け入れられやすいと思います。たぶん配給側もそのあたりに着目したのでしょう。

 「ほどよく情緒的・感傷的」と書きましたが、部分的には情緒過多だと感じた要素もあります。例えば、集合写真の使い方。
 この映画は黒社会に生きる幼なじみの5人の男たちが主人公で、そのうちの1人・ウーがボスの命を狙うものの失敗して逃亡、あとの4人は、ボスの命令でウーを殺そうとする者と逆にウーを守ろうとする者とに分かれるが‥‥というストーリー。映画には彼らの少年時代の写真と、中年になって複雑な状況で再会した時の写真、そして(詳述は避けますが)終盤で撮影される重要な写真と、合計3枚の集合写真が登場します。これらの見せ方・使い方が、ややベタで泣かせに走っているんですよ。
 
 しかし。映画全体としては、「泣かせに走っている」という印象はありません。これはやはり、語り口の淡さが功を奏しているのでしょう。というのも、この映画は全体的にセリフが少なく、特に説明ゼリフが非常に少ないのです。
 主人公たちの背景や少年時代の思い出なども殆ど説明されないし、ウーがボスの命を狙うに至った事情も一切説明されません。説明は無くとも、彼らの現在の姿やボスの行動などから、観客が背景や事情を何となく感じ取れるようになっているのです。このあたりの抑制が利いているので、ベタベタのいわゆる「泣ける映画」とは感触が違います。

 最後にミーハー的なことを書いておくと。ジョニー・トーがノワール・アクション路線でよく起用するキャストには私の好きな俳優さんが多く、実はそれもあってトー監督のこの路線に注目しているわけですが、今回も期待どおりイイ役者さんが勢ぞろいしていて、特にボスを演じたサイモン・ヤムが光っていました。
 つくづく思うのですが、この人、演技力の鍛錬だけでなく体づくりにも励んでいるんでしょうねえ。50を過ぎてこれほどガッチリした逞しい体を維持しているというのは、相当の努力があってのことでしょう。まあ、かつてセルフヌード写真集を喜々として出版した人なので、基本的に「俺、自分の体が大好き♥」ってことなんでしょうけど。いずれにせよ、今回のような粗暴で残忍でなかなか死なないキャラクターをみごとに具現化できるんだから、大したもんです。
 
 ちなみにアンソニー・ウォンとニック・チョンについては、過去にそれぞれ記事を書いていますので、興味のある方はこちらこちらをどうぞ。そうそう、アンソニーの記事に希望として書いた「シネマヴェーラでのアンソニー特集」は最近実現されたのですが、残念ながらエボラや人肉饅頭など猟奇・変態作品が入っていませんでした。権利問題など色々難しいとは思いますが、今度はぜひ「変態アンソニー特集」をお願いします。
プロフィール

Author:サイボク
60年代後半生まれの♀。
東京在住。
twitter.com/saiboku_ya

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